石の2 長崎の26聖人殉教地ー西坂


26聖人1 最近、似た年の職場の同僚から、
「長崎出身なら、キリスト教なんでしょ?」と真顔で聞かれた。
そんなわけないよ!と、笑い飛ばしたが、ふと、
東北人から見ると、そう思うのかな?とも思った。

確かに歴史を振り返ると、信長と秀吉の時代には、
九州北部地方は、キリシタンの植民地になりかかっていたのである。
大名がたくさんキリシタンになっていたので、多くの港や、
領地を宣教師に差し出しており、驚くべきことに、
長崎の港も、ある時期は、ポルトガル領だったことがあるのだ。
そして、宣教師の指導の下、仏教寺院や神社を、
異教徒のものだとして打ち壊すことまでしていたという。

ところが、スペインやポルトガルが、アジアの国々に、まず、
宣教師を送り込んで、キリスト教に洗脳してから、次に軍隊を
送り込み、軒並み植民地化しているということに気付いた
秀吉や家康は、キリスト教の布教を禁止し、宣教師に
国外退去を命じた。まあ、当然の国防措置である。

しかし、なかなか信仰を捨てないキリシタンの民衆が多かったため、
徳川幕府は徹底的な弾圧を行い、見せしめのために、
大阪において、外国人宣教師の大物と、幹部の日本人を捕え、
26聖人 長崎で処刑することにした。それが、26聖人殉教である。
捕縛されて着の身着のまま、大阪から長崎まで歩かされた。
衣服も髪形、姿もボロボロになり、遠巻きにする群衆からは、
石を投げつけられ、血を流した傷口が膿んでもそのままにされた。

ところが、下関海峡を船で渡り、九州街道になると、雰囲気が
ガラリ変わった。同道を願うキリシタンの農民が追いすがってくる。
役人がそれをいくら棒でこづいて追い返しても、ついてくるのである。
中には、自分も一緒に処刑してくれと言い出す者もいる始末だ。
護送の役人達も、うすら寒い不気味さを感じるようになった。

長崎領内に入ると、いっそう民衆がザワザワとしている。
長崎奉行も、郊外の西坂の丘に処刑の柱を用意したものの、
キリシタンの民衆が、宣教師達を奪い返すために暴動を
起こしやしないかと恐れおののいたという。
そのため、、一日の余裕を置く日程をキャンセルして、
到着するなり、処刑を実行することにした。警備も厳重にした。
竹矢来の組まれた向こうには、背景の金毘羅山の上まで、
鈴なりの群集がビッシリと集まり、泣き叫んだという。
役人達は生きた心地もしなかったと思う。

ただ、役人達にとって意外だったのは、彼らに暴動を起こす
雰囲気はなく、むしろ、自分達も一緒に天国に行きたいと
泣いているということだった。
そして、合図と共に、26聖人の胸に槍が突き立てられると、
竹矢来が崩され、一部の民衆が刑場内になだれ込んだが、
彼らがやったことは、処刑の柱にすがることだった。

26聖人3 柱に据えた死骸は長期間、放置された。
長崎の港から見ると、西坂の丘に白いものとして見えていたという。
しかも、キリシタンの民衆の熱気は衰えなかった。
26人のボロボロの衣服や、柱の断片をまるで、聖なるものとして、
警備の目を盗んでは、奪い合ったという。
おそらく、それらは隠れキリシタンの間で、今でも
秘められ、伝えられているのではなかろうか。
26人は後に、ローマ法王庁から聖人として認定された。
西坂の地には、今は26聖人を刻み込んだレリーフの立派な碑と、
26聖人教会が建てられている。

中学生の頃、その西坂の26聖人記念公園が、ぼくと友達の
遊び場だった。そこから見える夕焼けがとにかくきれいで、
そんな歴史もほとんど知らず、青春の1ページの風景だった。
長崎駅からすぐの観光名所だったので、観光客も多く、
坂を登って来る若い女性二人連れに、道を聞かれた時には、
わざと遠回りの道を教えては、おもしろがっていた。
中学生のガキというのは、自らを振り返ってもバカだと思う。


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