石の2 あがた森魚の「赤色エレジー」

あがた森魚1 1970年代、ぼくらの青春時代に、あがた森魚(もりお)という異色の
シンガーソングライターがいた。ビートルズと学生運動のその時代、
フォークソングといえば、アメリカでも日本でも反戦運動歌から出発
したのだが、やがて、学生運動の挫折と共に、厭世的な気分になり、
一気に内向的になり、若い男女の貧乏な同棲生活などを描く、哀愁
あふれる四畳半ドラマになり、それで大ヒットしたのが「神田川」である。
ぼくらは、あの出だしのバイオリンのメロディーを聞くだけで
胸がキュンとなる。

その厭世的な気分がどういうわけか、大正ロマンというか昭和ロマン
というか、「命短し、恋せよ乙女」という歌の流行った当時の気分に
重なるのである。そんな中から出て来た、この、あがた森魚の曲、
「赤色エレジー」もヒットした。エレジーとは悲しい歌のことである。
当時の若者がみんなそうだったように、彼も長髪で、しかも下駄履きで、
歌も上手いとも思えないようなカスレ声だったが、とにかく独特の
雰囲気があり、自分の世界を持っていた。
前衛的な漫画雑誌だった「ガロ」に連載された林静一の「赤色エレジー」に
触発されて作った歌だという。ぼくはその次にヒットした
「君はハートのクィーンだよ」も大好きなのだが、とにかく、ひときわ
異彩を放っていた歌手である。

そして、彼の母親である、山縣(やまがた)良江さんも、
精神世界では、それなりの有名人だった。
自然分娩を行う助産婦として「聖なる産声」という著書があり、
また、マクロビオテックの講師として、日本全国を回ってもいたのだ。
マクロビオテックというのは、明治時代から昭和にかけて
日本で発達した自然食のスタイルであり、玄米菜食を
基本としている。贅沢でおいしい食事とは無縁のもので、
ひたすらに人間自然の健康であることを求める。
そのためには必要最小限のものしか食べない。肉食もしない。
おもしろいことに、このマクロビオテックの信奉者が
アメリカの超有名人にもいるのである。
マドンナや、トム・クルーズ、クリントン大統領など
そうそうたる顔ぶれである。

当時、ぼくらは精神世界の仕事に関わっていたので、
ある時(1990年頃)、山縣良江さんが福岡にやってくると聞いて、
仲間を募って無料で講演会をやってもらったことがある。
その折に、ぼくら夫婦のマンションに泊ってもらった。
もちろん朝夕に提供する食事はマクロビオテックに添った
ものでなければならず、妻も苦労したようだが、彼女自身も
当時はマクロビオテック風の食事をしていたのである。

最近(2010年)、ファッションモデルの間で、マクロビオテックが
流行っており、マクロビオテック居酒屋などという店も
あるというが、そんなのは真似ごとに過ぎない。
完全なマクロビオテックというのは、食事は完全な玄米であり、
おかずは胡麻塩と、独特な調理法で炒った味噌だけである。
妻が毎晩、それを摺り鉢でゴリゴリやっている姿というのは、
まるで秘密の薬を調合する魔女に見えた。

しかし、ぼくは途中から、どうにも耐えられなくなっていた。
ある朝、マクロビオテックに準じた味噌汁を彼女が
作ってくれたことがある。出汁は全くとらないのだ。
しかし、ダシを取らない味噌汁がうまいわけもなく、一口飲んで
ぼくはおもわず「まずい!」とつい本音を言った。
その日、一日中彼女は口を聞いてくれなかった。
でも、本来、彼女は料理上手なのである。
ぼくは早死にしてもいいから、君のおいしい料理が食べたい
と言った。しばらくして、彼女はマクロビオテックを辞めた。
ぼくは幸福になった。

話は戻るが、痩せて肌が色黒の山縣良江さんは、
(マクロビオテックの人は、みんなそうだったように思う)
鹿児島県の屋久島に一万坪の土地を持って、畑を耕し、
夫婦で自給自足の田舎暮らしをしていたが、
既に故人となった。
(良江さんがうちに泊まった時、息子のあがた森魚さんが
一週間後に、タモリの「笑っていいとも」の冒頭のコーナーの
「テレフォンショッキング」に出演する予定だと言っていた。
あれは当日に翌日の出演をお友達に交渉するはずであるように
テレビでは見せているが、それが、へえ、一週間前にもう既に
決まっているのかと、テレビの演出に感心したものである)
あがた森魚さんは、去年また新しいアルバムを出したらしく、
そのエレジーも健在である。
(2010年)

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