石の3 会津若松…会津っぽの町


高杉1 1998年、山口県・萩市が、福島県・会津若松市に
友好都市の申し入れをした。
 ところが、会津若松市の市長はきっぱりと拒否した。
市民感情を考えると、それはできない」というのだ。
この新聞記事を読んで、東北に来たばかりのぼくは本当に
びっくりした。拒否した理由が、歴史的なものだというのは
だいたい推測できたが、あれから百年は経過している。
なんという土地柄だろう。

原因は、明治維新の戊辰戦争にまで、さかのぼる。
 薩摩、長州という改革派の志士達が京都で活躍を始めた頃、
藩主の松平容保が、「京都守護職」に任じられる。
いわば、警察機動隊である。火中に栗を拾うような役目である。
藩を上げて反対したが、将軍・慶喜に押し切られて、武士団を
連れて着任する。
 当然、志士達の目の仇である。しかも、配下に置いた
新撰組」がやたら元気で、志士達を切りまくる。
やがて、薩摩、長州が官軍となって、東日本に押し寄せて
来た時、会津だけは容赦するなという雰囲気ができあがって
おり、会津はボロボロにされた。
高杉2  有名な「白虎隊」の悲劇が、この町のことである。
婦女子で自害した者も多く、殺された藩士の死骸は葬ることを
許されず、野ざらしにされたという。生き残った藩士家族は、
東北の最北の下北半島に移され、乞食同然の生活を余儀なくされた。
その時の長州藩の酷い仕打ちへの恨みを会津人は忘れないという。
 今の山口県が、その時の長州藩である。
「会津っぽ」という言葉があるが、会津人というのは、
とにかく頑くなな人が多いらしい。
 もし、その歴史を認識しない九州人が、会津観光に行って、
夜の町に繰り出して、九州弁で騒ごうもんなら、どうなるか?
という、おっかない想像をしてしまう。

 ということで恐る恐る、初めて会津若松市に行った。
ところが、町の印象はとても明るかった。
メインの通りを「野口英世青春通り」と言い、
観光客でたいへん賑わっていた。
 そうか、野口英世が出身の町なのだと初めて知った。
石造りの古い商家や、喫茶店が多い。喫茶店というのは、全国的に
衰退気味にあるが、ここ会津若松では情緒ある古い喫茶店が
あちこちにあって、それを愛する常連客が存在しているようである。
 ぼくらが入った喫茶店も、野口英世が子供の頃、手の火傷を治療
してもらった医院をそのまま喫茶店にしている店だった。
 通りの数軒先には、野口英世の初恋の相手が暮らしていたという
店もある。古い商家をそのまま活かした、みやげもの店も多い。
そういう、メインストリートの雰囲気は、情緒があって、レトロで、
大正ロマンの印象がある。散策するに飽きない町である。

ただ、歴史資料館に行くと、戊辰戦争における会津の悲劇が
たっぷり語られている。まあ、仕方のないことである。
 ただ、へえと思ったことがひとつあった。
きれいな観光物産館の通路のめだたない場所に、
「佐々木只三郎」の碑があった。京都見廻り組の会津藩士、
というよりは「龍馬を斬った男」として有名である。
「じゃあ、みんなに嫌われている人ね」と優子が言うが、
「でもなあ」なにしろ、会津藩士の役目としては、立派な仕事をした
佐々木只三郎 ということになる。しかし、相手は天下のアイドル、坂本龍馬である。
地元の評価はどうなのだろうかと、後で調べてみた。
すると、地元でも佐々木只三郎を誇るには、少し二の足を踏むらしい。
どうも、分が悪いので、あまり言い立てないでおこうとなっている。
彼は、そのすぐ後、鳥羽伏見の戦いで戦死している。
 龍馬暗殺では、もう一人の今井信吉という人は、
徳川藩士が移住した静岡の、ずいぶん山奥の一軒屋で余生を
送ったが、龍馬暗殺の報復を恐れて、家の周りに深い堀を設け、
おびえて暮らしたという。

 とにかく、ぼくらは日帰りで会津若松を観光したわけだが、
野口英世青春通りを中心に、町おこしをしている大正ロマン
の雰囲気が、とても気に入ってしまった。
だから、なおさら、萩市からの友好関係を拒否していると
いうことが、すごく、もったいないような気がした。
(1999年)


■2011年になって、この文章を読んだ人から、「それは違う!」
という投稿を頂いた。何が違うのかというと、官軍が会津憎しのあまり、
敗軍の会津兵の死体を野ざらしにするような命令を出したということだ。
指摘を受けてよく調べてみると、なるほど違うようである。
そして、国替えを命令された時も、同じ福島の猪苗代か、青森の
斗南のどちらにするかと言われて、会津藩が斗南を選んでいる。
そして、当時の会津藩では農民は重税に苦しんでおり、
鶴ヶ城が落ちようが、白虎隊が自決しようが、知らんというような
気分であったらしい。つまり、同じ会津人といっても、松平家の武士と
領民である農民とでは、かなりの意識の差があったらしい。
意外である。
でも、会津若松市としては、白虎隊の悲劇を美化することで、
あるいは会津の悲劇を強調することで、観光の上では有名になり、
多くの観光客が来るようになった。


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