石の2 日本からアクセサリーが消えた1100年


アクセサリー1 人類は世界中で古代からアクセサリーを好んで身につけてきた。
指輪、耳飾り、首飾り、腕輪など、材質も貝、ヒスイ、宝石、金属など
歴史年代に応じて、あらゆる種類がある。
最初は魔除けなどの意味から始まって、地位の象徴、メモリーなど
の意味が加わり、今ではすっかりファッションとして定着している。

古代日本人も勾玉の首飾りや耳飾りをしていた。ところが、それが
大和政権成立後の奈良時代あたりから突然、消えてしまうのである。
それから明治維新によって西洋文化が入ってくるまでの1100年間、
日本人は身につけるアクセサリー類とは全く、無縁になるのである。
しかもそれが、日本だけの現象なので、文化史を扱う学者の間では
ミステリーとなっている。

確かにそうである。アフリカでもアジアや中南米でも西欧でも、世界中
の王族が権威の象徴として、金銀宝石を用いたのに比べて、日本では、
天皇がジャラジャラと装身具で身を飾り付けることはなかったのである。
16世紀の日本少年遣欧使節が ヨーロッパに行った時も、宝石に全く
興味を示さないことに、向こうの人は不思議がったという。
もちろん、ルビーやダイアモンドのような宝石は日本にはなかったが、
真珠や、金や銀などの素材は日本には豊富にあったのである。
それでも、日本人はそれでアクセサリーを作るということをしなかった。
それがミステリーと言われる所以である。

そこで、考えられるのはこうである。
アクセサリー2 白人というのは基本が遊牧民族である。あちこちに移動しなければならない。
その場合、財産を持ち歩かねばならないが、それを宝石に変えて身につけて
いるのが最も合理的なのである。ヤクザさんは、よく高価なローレックスの
時計をしているが、あれは、逃亡をする場合に、すぐに質屋でお金に換える
ことが出来るからだと聞いたことがある。それと同じ理屈である。
一方、列島内で農耕民族だった日本人にはそういう必要がなかった。
農耕民族にとっては、土地が一番の宝なのである。だから縄文文化から
弥生文化になると同時にアクセサリーが消えたのである。

だいいち、農耕をするのにアクセサリーはジャマである。
さらに水田農耕である。砂漠や乾燥地帯の大陸と違って、日本は水が
豊富で、温泉にも入る。下手な金属ではすぐ腐食するということもある。
さらに、水田耕作では、水の流れを平等に分け合わなければならない。
何事も共同体としての作業が必要とされるのが、日本社会である。
自己主張の強い目立つ人は嫌われるし、なんといっても、日本では
贅沢をする人は嫌われるのである。欧米では、自分の才覚で財産を
築いた人間は尊敬され、それなりの贅沢をしても当然だと思われるが、
日本では、お金持ちになっても、贅沢をする人は決して尊敬されない。
そういう人物は成金と呼ばれて、決して高い評価を得ない。

アクセサリー4 成金として日本史で一番有名なのは豊臣秀吉だろう。
成り上がりゆえに、成金趣味の豪華さを好んだ。それを桃山文化と
いうが、まるでベルサイユ宮殿のような派手派手さである。
それを諌めるような形で、ワビ、サビ風の茶室を作り、皮肉ったのが
茶人・千利休である。彼は脅されてもいっさい屈しなかった。
秀吉は最後には彼を憎み、殺してしまった。

しかし、その後、徳川幕府になると、武家というのは質素を旨とし、
贅沢を嫌った。金を儲けることもよしとしなかった。だから士農工商と
呼んで、商人を、人としての地位の最後に置いたのである。
当然ながら、武士はアクセサリーなどはしないし、庶民もそれに習って、
せいぜいが、櫛や帯留めや根付などの装飾で我慢したのである。

明治以後には、日本にも西洋文化と共に、商業主義がもたらされ、
アクセサリーはイヤリングや結婚指輪などとして普通になったが、
それでも、男がピアスをしたり、銀の首飾りをしたり、ブレスレットを
することは普通、あまり好まれない。

アクセサリー ぼくは1100年間の日本におけるアクセサリー消失のミステリーは、
むしろ日本人の本性ではないかと思う。例えば、西欧でも、中近東
でも中国の宮殿でも、やたらと賑やかな彫刻や装飾と色彩で飾り
立てるのだが、日本の皇居はそれとは正反対のほとんど何の装飾
も家具もない空間である。日本人はそれを清潔だと思う。
極めつけは、伊勢神宮である。生木の柱を基本に装飾どころか、
あらゆる色彩もない。実にすがすがしいと思うのが日本人である。
ぼくはこっちが本当の理由ではないかと思うのである。

参考:「アクセサリーが消えた日本史」浜本隆志・光文社新書
(2015年2月25日)

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