石の2 東日本大震災・その2

あの日1 3月11日(金)、仙台市内は午後2時46分の震度7の揺れから
十数分くらいで全域が停電になった。当然、テレビもパソコンも
画面が消えた。電気が復旧したのは、3日後の日曜日の昼だ。
それまでは情報を、携帯ラジオに頼るしかなかった。
我が家の地区は、奇跡的に水道が止まらなかったので、飲み水や
調理の水には困らなかったし、トイレも使えた。震度7で水道が無事
だったというのはすごいことだと思う。ただ、同じ仙台でも水道が止ま
った地区は多く、給水車が毎日、出動した。

一方、ガスはすぐに全市内で止まり、その復旧は約一カ月後になった。
そのため、水が出ても風呂が沸かせなくなった。仙台に一番近い
秋保温泉には、温泉旅館がいくつもあるが、施設に損傷があり、
客を再び受け入れられるようになるまでに、掛け流しの温泉でも
一週間はかかり、沸かし湯の温泉は、ガスの供給を待って、さらに
もう少し時間がかかった。最初は入浴も、人数限定になっていた。

震災三日後辺りからは、いろんな食材の不足が顕著になった。
なにしろ、コンビニもスーパーも全部が閉店しているのである。
近所のスーパーが朝10時から開店するというので、9時半頃に
行ってみたが、雪がチラホラする天候の中で既に50人くらいの
行列が出来ていた。生鮮野菜は、ある限り買い放題だったが、
ガスボンベは一人3個限りとか、いろいろ制約があった。それは
仕方がないと思うし、みんなが守っていた。停電が続いているため、
在庫の冷凍モノは、品質を保証できないので、各自が判断して買っ
て下さいとのことだった。無理もない。その後、生野菜はもちろん、
あらゆる食材がどんどん手に入らなくなっていった。

困ったといえば、ガソリンスタンドが次々に閉店したことだ。停電で
給油設備が動かない上に、仙台港の精油基地が破壊され、他県
からタンクローリーで輸送するにしても、道路があちこちで寸断され
たり渋滞しているために、補給が追いつかなかったのだ。
タンクローリーが来た給油所にはすぐに100台を越える車の列が
できたが、すぐに品切れになった。次はどこのガソリンスタンドに
ガソリンがやってくるのか?ネットで調べたり、近所のスタンドを
自転車で小まめに回って看板で知るしかなかった。

あそこのガソリンスタンドは明日の午前9時から、灯油もガソリンも
あの日2 売りだすという情報を得ては、眠い目をこすりながら、二人で片方が
早く起きて午前3時から車で並び、片方が普通に起きて、自転車で
追いかけて一緒になるという連携プレーをやった。その時には、温か
い飲み物をジャーに詰めてゆく。何キロの行列だったろうか、開店して
から順番が来るまでに2時間以上はかかった。そういうのを2回繰り返
して、やっと満タンに出来た。その帰り、飲食店がどこも再開出来ないで
いた中、早くも店を開けていた和食レストラン「まる松」に二人で、入り、
温かい天ぷらソバを食べて「おいしいねー」と言い合った体験は忘れら
れない。

一週間経ち、一番町の繁華街にあるダイエーには東京から10トン
トラックが乗り付け、かなりの商品があるらしいが、それでも5時間は
並ばないと買えないという。コンビニや本屋からは週刊誌も消えた。
とにかくモノがよそから入ってこないのだ。一番町のアーケードには
すぐに「がんばろう東北」という横断幕が張られたが、一番町の店の
中で、食料を提供できる店はすぐに調理して店頭で売りに出していて、
どこも、いつも通りの値段かむしろ安く売っている店もあった中、ある
店だけは地震の翌日から普段の倍の値段で売っていて、悪い意味で
すぐに有名になり、妻の優子も、今後、あの店には絶対に行かないと
憤慨していた。

震災から10日後の日曜日、秋田の義兄夫婦が食料をたくさん抱えて
ワゴン車でやって来てくれた。歓声をあげて迎えたものだった。
緑の野菜だけでもうれしかったが、ガスが止まっているだろうからと、
IHCヒーターを持ってきてくれたのもうれしかった。それまで、調理は
鍋物に使うガスボンベ卓上コンロに頼っていたのだが、何しろ火力が
弱く、炒めものには不向きなのだ。キャンプ用のガスバーナーはずっと
火力が強くて便利だったがすぐに在庫がなくなってしまった。

3月19日、お彼岸だからということで、優子が一人で自転車を駆って、
墓参りに行ってきたが、どうも多くの墓が倒れているらしく、立ち入り
禁止になっていて、その後の対処を相談して帰ってきた。
3月31日になっても、ガソリンスタンドは相変わらずの行列であり、
コンビニも、棚には何もない。20日経つが、風呂にも入れてない。
近所のスーパー銭湯「極楽湯」も、まずかなりの行列に並んで整理券を
もらってからでないと入れないという。ところが、4月1日に行ってみると、
もう整理券なしで入れるという。湯船に垢が浮いていたが、久しぶりの
風呂である。こんなに気分の良いものかとうれしかった。

ただ、テレビを観ていて本当に心配だったのが、福島原発のことだ。
電力会社は今まで、原発は絶対安全であり、あらゆるエネルギー源
あの日3 の中で一番安く上がるのだと言っていたが、それが丸っきりウソだと
いうことが、この震災で露呈した。福島県の半分の土地がこれからは
人間が住めなくなるのだ。東電はそれに対する補償をしなければなら
ないし、膨大な赤字を抱え込む事になる。何が安いエネルギー源だ。

4月6日頃になると、やっとガソリンスタンドも以前のように、普通に
営業できるようになったし、4月11日にはついに、都市ガスも復旧
した。我が家で風呂に入れるようになったのだ。
そして、4月17日には、仙台で桜が満開になった。
しかし、多くの桜祭りが中止になった。なにしろ、宮城県だけで
1万人の人が亡くなったのだ。海岸の被災地の被害の酷さは、
それからも毎日毎日、テレビで放送され続けた。
それを悼む心が強かったのだ。

テレビCMからも普通の商品コマーシャルがなくなり、毎日、
朝から晩まで公益法人・ACジャパンのCMだけになって
しまったのにはうんざりした。なにしろ、1分程の同じCM映像を
1日中エンドレスで流すのである。見ている方はいい加減にして
くれよと言いたくなる。これも震災の体験として忘れ難い。
日常の生活にやっと戻れたのは、やっとこさ、5月のゴールデン
ウィーク頃からだったろうか。その頃になって、ぼくらも車で、被災地の
閑上や、七ヶ浜の沿岸部を、実際に車で走ってみたが、その被害の
すごさを実感したし、だいぶん片付けたのだろうが、破壊された
家々が、未だにそのままであるのにショックを受けたもんだ。

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