石の2 幕末の長崎・その時、長崎奉行は…


幕末の東北諸藩は、戊辰戦争において、薩長の官軍に敵対したために、
bakumatu1 戦場になり、会津の悲劇など、ボロボロの敗戦になったわけだが、
では同じ頃、長崎ではどうなったのか?と少し不思議に思った。
なにしろ長崎は藩ではないので、基本的に武士はいない。
倒幕派の武士がウロウロしているとはいえ、一応、幕府の直轄領である。
長崎奉行もいたはずである。彼らはどう行動したのか?
ということで調べてみた。

その幕末の最後の長崎奉行になったのが、河津伊豆守祐邦
という人だった。実はこの人、「スフィンクスと34人のサムライ」
という、チョンマゲのサムライがエジプトのスフィンクスの前に並んだ
有名な幕末の集合写真に写っている一人である。

徳川幕府はペリー艦隊の圧力に負けて、4年後、井伊・大老
の決断で、日米通商修好条約を結び、開国したわけだが、
その2年後の万延元年(1860)に、条約批准のために、
幕府の使節団が米艦に乗って、初めて、太平洋を渡った。
その時に随行したのが、勝海舟を艦長とする咸臨丸である。

その3年後に、別の交渉で、幕府の第二次遣欧使節団が
パリに派遣されたが、その34名が帰りにエジプトに立ち寄り、
ピラミッドとスフィンクスの前で記念写真を撮ったのが有名な
奉行2 右上の写真である。河津さんはその使節団の副使であった。
つまり、洋航帰りであり、世界の状況も良く理解していた。

帰国後、函館奉行として、五稜郭の建設にも功のあった人で、
慶応3年、勘定奉行並になり、126代長崎奉行に着任する。
長崎奉行というのは、元々、幕府旗本から抜擢されていたが、
外国貿易のおこぼれで相当の蓄財ができるというので、人気が
高まり、近隣大名からも手を上げる者が殺到したが、幕末に
なると、さすがになまじっかな人物にはまかせておけないという
ことで、こういう幕府の要人が着任することになった。

ところが、河津さんが長崎に来てみれば、なんと数日前に
将軍・慶喜が大政奉還をしたという。「聞いてないよ!」である。
ということは、幕府消滅ということであるから、幕府直轄領で
ある長崎奉行も意味がなくなるわけだ。彼はとてもビミョーな
立場に置かれたことになる。しかも、半月後には、京都近郊の
鳥羽伏見おいて、薩長軍と、幕府軍とが戦争を始め、しかも
幕府軍が大敗して、将軍・慶喜は幹部を引き連れて、
船で江戸に逃げたという。

ということは、河津さんは、ほとんど官軍の九州勢の真っただ中に
取り残されたことになる。彼はすぐに長崎代官に相談する。
長崎代官というのは、長崎奉行の下で、民政を担当する役職である。
奉行 本来は幕府の人間が担当する役職なのだが、長崎の場合は代々、
民間人の力が強く、地元長崎の有力人がなるのが通例であった。
当時の筆頭は、薬師寺久佐衛門という人物である。
彼は河津さんに大胆に進言した。
「こういう事態に至って、長崎奉行にお願いしたいことは、長崎町民に
無益な混乱を起こして欲しくないということだけです。そのためには、
奉行には、すみやかに長崎を立ち去ってもらいたい」
河津さんは「わかった」とうなづいた。
まず、長崎役所を護衛するために幕府から派遣されていた
浪士の集まりである遊撃隊300人を長崎から追い出し、
奉行所の役人にも、長崎から去ることを命じた。
その上で、福岡・黒田藩を通じて、長崎に出張所を設けている
薩摩藩や土佐藩の幹部に面会を求めたのである。

実は、鳥羽伏見の戦いが起こった時点で、長崎でも
長崎奉行所と、長崎在住の薩摩、土佐の武士達との間に
戦さが起こるのではないかと長崎町民は恐れてパニックになり、
避難騒ぎが起きていたのである。それに輪をかけたのが
浜町で起こった火事である。長崎中心部から火の手が上がり、
土佐商会の建物までもが焼けてしまったのである。すわ、
奉行所の反撃かと思われたらしい。

そういう中での、奉行・河津と、薩摩・土佐の面々との会合
である。最初、あちらは河津が何を言い出すかと戸惑ったらしい。
しかし、要は、長崎に混乱をもたらしたくないという話だった。
長崎港には、日本側と同じ規模のイギリスやらロシアやらの
軍船がいて、まかりまちがえば、彼らにつけ入る隙を与える
かもしれぬ。日本のためを思えば、ここは、幕府奉行として、
奉行4 さっさと退去するし、西役所も空にして渡す、ゆえに、その後の
治安は、町民代表の代官と、長崎在住の薩摩や土佐の藩士に
ゆだねたい、という申し入れだった。
薩摩と土佐の幹部は、ほんとかいなと最初は疑ったが、翌朝、
西役所に赴くと、ほんとに西役所は空っぽになっていた。
河津祐邦は、わずかな護衛と共に、既にロシア船に乗り込んで
いたのである。すっかり、空っぽになった役所を見つけて、
薩摩と、土佐藩士は、あっけにとられたという。
見事な引き際であった。
(参考:白石一郎の短編小説集「玄界灘」の中の「さいごの奉行」)

ちなみに、九州にはもう一つ、幕府の天領として阿蘇に近い所に
内陸の盆地である日田があった。今でも古い町並みの豆田町が
観光名所になっているが、幕末においては、広瀬淡窓(たんそう)
という学者がいるということで、日本中からその教えを学ぼうと
若者が集まったことで有名だ。その日田代官所には、西国郡代
として、窪田鎮勝がいたが、河津さんが長崎を脱走した3日後に
やはり脱走して、日田は周辺の諸藩により接収された。
この窪田鎮勝という人は、元々、九州の筑後・柳川の名家である
蒲池(かまち)家の子孫であり、その別系の子孫には、昭和の
小説家・広津和郎や、歌手の松田聖子がいる。
(2009年)

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