石の2 海の航海で怖いのは、ビタミンCの不足


ビタミンC 15世紀から17世紀にかけての大航海時代に、ポルトガル、
スペイン、オランダ、イギリスといったヨーロッパ諸国は、
勇躍、七つの海に乗り出し、世界中を次々に略奪、植民地に
していったわけだが、その長期航海において、乗組員が常に
悩まされた原因不明の病気があった。
歯ぐきがグラグラして出血し、皮膚や粘膜からも出血し、
脱力感、鈍痛がひどくなり、やがて死に致る。
今で言う壊血病である。

16世紀に南アフリカの喜望峰からインドへ至る航路を発見した
ポルトガル人の、バスコ・ダ・ガマの船隊では、180人の乗組員
のうち100人がこの壊血病で死亡したと言われている。
ただ、それは単なる一例に過ぎない。
当時の遠洋航海では、乗組員のうち、半分以上が、壊血病で
死亡したというのだ。当時はそれが当たり前と考えられていた。
船乗りというのは、儲かる時には儲かるが、その分、死ぬ率も
多い博打のような職業と考えられていたのである。

この壊血病は、海上生活では補充できない生野菜や果実の不足の
せいであり、要するにビタミンCの不足のせいなのだが、それが
科学的に証明されたのは、ビタミンCが発見された1932年の
ことである。ただ、17世紀頃から現場では、柑橘類を取ると
ビタミンC2 良いと言われたりしたが、それは、まじないの類と思われていた。

1753年には、イギリス海軍付属の医者であるジェームズ・リンドが
食事療法の実験を行い、壊血病にはレモンやライムなどの
摂取が最も効果的だと発表したが、医者達の権力抗争もあり否定
され続け、やっと認められたのは40年後であった。それによって、
イギリス海軍では乗組員にレモンジュースを飲むことが強制され、
壊血病が減ったのだが、乗組員には信じない者も多く、それ以後も、
イギリス海軍以外にはなかなか広がらなかった。

1904年の日露戦争の時ですら、ロシアのバルチック艦隊が
大西洋から出港して日本海に来るまでの遠距離航海の間に、
多くの壊血病患者を出し、士気がずいぶん削がれたという。
そして、この病気は日露戦争の陸上の戦いでも出現した。
旅順港を守るロシア軍は、陸から攻めよせる日本軍に対して、
強固な要塞を築いていたが、内実ではロシア兵は、ビタミンCの
不足で壊血病に悩まされていて、士気の低下が避けられなかった。

そして、これは後日談だが、要塞に攻め込んだ日本軍は、
ロシア側の食糧倉庫にたっぷり残されている大豆を発見
ビタミンC4 した。ロシア人にとって、大豆とは煮て食べるという
食事方法しか知らなかったが、もし、大豆を水で育てて
もやし」にして、料理して食べたならビタミンCを充分に
摂れたし、壊血病になることはなかっただろうと、言われている。

一方、日本軍はサツマイモを干した「干し芋」を携行し、
それは「軍隊芋」とも呼ばれたが、これはたビタミンCの
宝庫だった。主成分はでんぷん質ながら、繊維質も多く
熱にも強く、煮たり焼いたりしてもビタミンCは壊れにくい。
サツマイモの原産国は中南米であるが、それが東南アジアを
経て沖縄に渡り、さらに鹿児島に渡り、関東へと
伝わったとされている。江戸初期のことだ。
火山灰地の鹿児島では水田が出来ず、飢餓に苦しんでいたが、
この芋は痩せた土地でもどんどん繁殖するので、鹿児島の
ビタミンC3 飢餓がなくなった。さらに江戸まで伝わることによって、
どれほど多くの日本人を救ったかわからない救荒作物である。
ただ、寒さに弱いために、東北の飢餓だけは救えなかった。
もし、乾燥に耐えるこのサツマイモが、ヨーロッパの海軍に
具されていれば、壊血病からは、ずいぶん前に解放されて
いたかもしれない。

そういうわけで、日本ではビタミンCの不足に困ることは
なかった。だいたい日本の江戸時代では、海外渡航が禁止
されていたのと、肉を食べないで、米と野菜ばかりを食べる
食生活だったので、船乗りにとっても、ビタミンC不足に関する
問題はほとんどなかったのである。だが、実は、全く逆の予想も
しないビタミン欠乏症が起こっていたのである…
それは、ビタミンBの不足だった。…「森林太郎の失敗」に続く。
(2009年)

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