石の2 長崎市・大黒町…昭和30年代


大黒1 大黒町というのは、長崎駅前付近の一帯である。浦上方面から
来たチンチン電車は駅前で、出島方面と、市役所方面に二股に
分かれるが、その市役所方面のすぐ左に、5階建ての大久保ビル
というのがあった。ぼくはそのビルの3階に住んでいた。父が
京都魚市出張所長だったので、会社が借りていた事務所兼住宅
なのだった。ぼくは当時、幼稚園児である。

大久保ビルも今はすっかり建て替えられたが、当時は真ん中に
車が入れるような広場があり、それを取り囲むようにして居住区
が5層に並んでいた。ビルの隣には、魚のトロ箱や針金が、うず
高く積み重ねられている露店倉庫があった。
長崎といえば、三菱造船所と漁業の町である。そのため、大久保
ビルには、漁業関係の事務所が多かった。被爆から10年経って、
もうその頃には、市内のほとんどは普通の町並みに復興していた。
といっても、ぼくは昭和27年の京都生まれなので、被爆すぐの
町の様子は全く知らない。

大久保ビルの横に、坂道を挟んで中町キリスト教会堂がある。
大浦天主堂、浦上天主堂と並んで、長崎3大天主堂の一つだ。
元は大村藩の蔵屋敷だったが、立派な石垣の上に建っている。
その石垣下の坂道に沿うように、昭和30年代の頃、間口の狭い
二階建ての木造の長屋が連なっていて、ほとんどが夕方から開店
大黒2 する安い飲み屋だった。一階が飲み屋で、二階が居住区だった。
大人はドヤ街と言っていたが、ぼくの幼稚園仲間がその二階に
住んでいた。夕方にたまに、友達を訪ねてゆくと、店には労働者風
の客があふれ、昼間には見ない着物のお姐さんが酌をしていて、
「ねえ、お兄さんもっとお飲みよ」などと妖艶だった。厨房も忙しそう
で、こんな時に来るんじゃないよと怒られた。

そのドヤ街は、10軒が坂道に一列に並んでいて、その中には、
西洋風のバーのような店もあり、そこにいるお姐さんの一人は
肌が黒かった。黒人米兵との子供だったのだろう。ただ、坂の上の
一軒だけは、老夫婦がやっている小さな飴屋だった。一番下の店を
ぼくがビルの3階から眺めていたら、昼間は営業していない土間で、
そこの長男が競輪選手だったようで、固定道具で練習していた。

下から3番目の飲み屋の長男が、ぼくの幼稚園での親友であり、
よく行き来していた。誕生日にはチキンライスをごちそうになった。
小学校になると、ぼくが引っ越したので、それきりになったが、
1964年にオリンピックが誘致され、日本が高度成長期に入る
頃に、駅前にドヤ街はもうふさわしくないし、その場所は元々
不法占拠だったというので、そこの住民はまとめて、浦上の向こうの
松山町に集団移住を強制させられた。今は、石垣の下の坂道には
大黒3 何もなくて、すっきりしているが、そこにかつては、仕事帰りに
酒を飲む労働者が集う、ドヤ街があったのだ。今はもう、そういう
ことを知る長崎市民は少ないだろう。

その当時、ビルに住んでいる子も、ドヤ街に住んでいる子も、
一緒になって、大久保ビルに隣接する露店倉庫の中を走り回って
鬼ごっこをしてみんなで遊んでいたが、大きい子と小さい子との
体力差が違うので、小さい子はすぐ捕まってしまう。そこで、
ぼくのような小さい子は「ガメンコ」と言って、タッチされても、
すぐに解放されるルールになっていた。年長者が苦心して考えた
ルールである。あの頃の年長者の優しさを今になって思う。
(2015年12月)



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