石の2 2011年3月11日・東日本大震災


大震災1 寒いけれど晴れた日で、休日のぼくは二階の夫婦の部屋で、
ソファで横になって、テレビをつけて読書しながら、妻の優子を
地下鉄駅まで、車で迎えに行くために電話を待っている時だった。
午後2時45分。突然、グラグラと来た。

強い揺れだったので、灯油ファンヒーターを消し、逃げ口確保のため
窓やドアを開けて、大きな柱の近くに立ち、大きいなと思いつつ、
そろそろ終わるだろうと思っていたら、普通なら終わる頃になって、
さらに強い横揺れが始まった。ウソだろ!と思った。
部屋のあちこちでドサドサと物が落ちる。柱にしがみつく。
まるでジェットコースターだ。家がつぶれるのか?という
恐怖が湧いた。生きた心地がしなかった。とにかく長かった。
後で聞くと、6分間も揺れていたという。本当に怖かった。

揺れが納まってから、周りをみると、テレビや冷蔵庫の位置が
ずれていて、本棚からはほとんどの書籍が落ちて床に散乱していた。
階段を下りて一階にいる義母に「おかあさーん」と声をかけた。
奥の部屋で「はあーい」とかぼそい声が聞こえた。地震の時には
その部屋に逃げるべしと繰り返し言っていたのだ。そこは数年前、
斜め材で補強もしたし、災害時のための水や食料、燃料などを
常に備蓄しておいた部屋でもある。
33年前の宮城沖地震では、一階の台所の食器棚からあらゆる
食器が飛び出して割れたのだが、今回は食器棚の全てに固定具
をつけていたので、食器棚の扉は開かず、無傷だった。しかし、
テーブルの上の食器がいくつか飛んで割れている。

玄関の花瓶も割れて、花が飛び散っている。玄関を開けると
すぐ前の駐車場広場に、ご近所の方が集まっているので義母の
手を引いてそこへ連れていった。みなさん「すごかったねえ!」と
大震災2 顔を引きつらせている。寒いのでみなさん上着をはおっている。

少し揺れが納まったので、ぼくは情報が欲しくて部屋に戻った。
テレビでは震度が5とか6とか言っているが、それよりも、太平洋側の
岩手県、宮城県の全ての沿岸に大津波警報が出ましたと言っている。
アナウンサーも真剣な顔をしている。普通の津波注意報ではない。
大津波警報である。さかんに警報音を出している。大津波警報なんて
初めてだ!と思った時にプツンとテレビが消えた。停電になったのだ。

とにかく、妻と連絡を取ろうとケータイをかけてみたが繋がらない。
何度もやってみるが繋がらない。こういう場合は一気に集中するので
繋がりにくくなるというのはわかっている。固定電話は繋がりやすいと
いうが家庭にあるやつは、停電だとやはりダメだ。

パソコンの画面は予備電池でしばらくは持っていたが、やがてそれも
スーッと消えた。後の情報は乾電池のラジオに頼るしかない。
我が家には、こういう場合に備えて、乾電池ラジオが4個くらい、
あちこちに置いてあった。なにしろ、宮城県というのは、99%の
確率で大地震が起きると言われていた地域である。ラジオをはじめ、
ペットボトルの飲料水や、非常食、電池、懐中電灯、薬など、
普段から防災の備えはやっていた方だ。最低限のものを備えた
リュックを一階にも二階にも、それなりの場所に置いていた。

そのうちに、ラジオにより、マグニチュード9であり、震度6強であり、
それは阪神大震災の10倍以上の破壊力だということがわかってきた。
関東大震災をも上回る、日本の歴史上では最大の大地震であり、
世界的にみても、史上4番目のエネルギーの大地震だという。
しかし、我が家はもちろん、周囲の家屋でも倒壊した様子は全くない。
向かいの瓦屋根の上が少し崩れているのが見えるだけだ。
揺れは確かに凄かったけれど、それほどの大地震だとは思わなかった。
しばらくして、妻の優子が歩いて帰ってきた。いつも降りる地下鉄駅で降りて、
ショッピングモールで買い物をしてレジに並んでいる時に、地震が来たという。
後ろでいろんなものが倒れていたが、従業員の誘導で外に出て、
そのまま道があちこちでゆがんでいるのを見ながら、30分くらい歩いて
帰ってきたという。とにかく無事でよかった。

陽が暮れてくれると、段々と寒くなった。気温1℃。
暖房に関しては、我が家の灯油ファンヒーターは電気装置なので
大震災3 停電すると動かない。そこで、直接、点火する式の
石油ストーブを押し入れの奥に2台保存してあったのを、
引っ張り出してきて、石油を入れて点火すると、
火力は弱いものの暖かくなり、本当にありがたかった。

仙台市内のほとんどで、電気も水道もガスも止まったが、
幸い我が家の地区は断水しなかった。これだけはありがたかった。
だからトイレも使えたし、とても恵まれていた方だ。
その日の夕食だが、こういう時のために、ガスボンベをある程度
備蓄してあり、キャンプ用のガスバーナーもあったので、我が家は
暖かい普通の食事が最低三日間はとることが出来た。というか、
冷蔵庫や冷凍庫が止まるわけなので、そこにある材料を片っ端
から使わねば腐敗してしまう。というわけで、あれこれと調理して、
しばらくは、けっこう豪華な料理になったのである。といっても、
夜は食事も懐中電灯で照らしながら食べなければならなかった。

停電になって一番困ったのは、テレビが見れないということだった。
ラジオでは津波の被害がすごいというのだが、どれほどすごいのか、
映像がないと、いまいちピンと来ないのである。
とにかく、懐中電灯で身の回りを照らしながら、ラジオを聞くだけの
夜になった。余震が頻繁にあり、その度にストーブを停止してはまた
火をつけるのの繰り返しだった。とても寒かったので、スラックスの
下にはタイツを履き、靴下も二重に履き、いつでも外に出られる服装
のままで布団に入ったがなかなか寝付けない。
その時に驚いたのは、ベランダで眺めた夜空の美しさである。
広域停電のために、ものすごく多くの星が見えるのである。
感心してしまった。

翌日は土曜日だった。まだ停電のままだ。
さて、悩ましいのは二人共、仕事がどうなるのかということだ。
ラジオのニュースを聞く限り、地下鉄もバスも不通であり、
会社に連絡を取ろうにも、ケータイも固定電話も不通である。
市内全域が停電であり、道路は交通信号すらも止まっている。
「こんな状態で行けるわけないでしょ」と妻は落ち着いている。
確かにその通りである。
ぼくの場合は、会社まで自転車で10分程度なので一応行って
みたが、何もかもストップしていて、そのまま帰っていいですと
言われた。非常事態というのは、そういうものである。
家に帰ると、妻が鍋を使って、ご飯を焚いていた。
この日は、ラジオを聞きながら、余震が繰り返す中で
棚から落ちて散乱した書籍などを片付ける一日になった。
この日の夕食はまだ明るいうちにガスバーナーを使って
調理した、肉や野菜たっぷりの長崎ちゃんぽんだった。
仙台市内では停電のため、交通信号がつかないという。

そして、三日目の日曜日の午後1時25分、突如、電気が
復旧した。一階から優子が「電気が通じたよ!」と叫びながら
階段を上って来た。テレビがつくと、ニュースの映像がいきなり
画面から押し寄せてきた。それはもう悲惨なものだった。
大地震の被害はそれほどでもなかったが、それに伴って起こった
津波の被害は想像を絶するものだった。目がテンになった。
「ウソだろう!」と何度も思ったが、ウソではなかった。
津波とはこういうものかと初めて知った。
大震災4 よくパニック映画で描かれる津波では、いきなり何十メートルもの
波が襲うように描かれているが、本当の津波とは、ジワジワと
来て、一波から二波、三波と来るたびに高さと圧力を増してゆく。
そして、映画での津波は上から飛びかかるように描かれることが
多いが、実際の津波は下から盛り上がってきて、その圧力で、
建築物を下の方から根こそぎ持っていってしまうのである。

とにかく、テレビの画面を観て初めて知ったのは、仙台市の
海側にある田園地帯の凄まじい破壊の様子である。
仙台市の若林区、宮城野区、そして隣の名取市などがひどい。
我が家の仙台市太白区は、どちらかと言うと山側なので、津波とは
ほとんど無縁なのだが、海に近い場所は、とにかく酷い。
そして、海辺の町の被害は宮城県から岩手県、あるいはその南の
福島県などの広範囲にまで及んでいた。壊滅という言葉に等しい。
今回のマグニチュード9で、震度6という大地震ながら、建物の
倒壊がほとんどないことに、世界中が日本の頑丈な建物構造に
驚いているのだが、実際、今回の震災では、死者のほとんどが
津波による溺死であることがのちにわかった。
その後は、もうテレビに釘つけになった。
太平洋戦争以来の、未曾有の国難になったのである。


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