石の2 大宰府を歩く


大宰府3 遠くから仙台観光に来ると、青葉城や広瀬川、そして一番町を
歩いた後は、電車で30分の松島へ行くのが定番であるが、
福岡でも、繁華街の天神町を歩いた後は、夜の屋台が出るまで
西鉄電車で30分の大宰府を観光するという人が多い。

太宰府駅を降りると、すぐに天満宮までの参道が続いていて、
土産物店や飲食店が並び、賑やかである。名物は、焼き立ての
「梅ヶ枝餅」。天満宮というのは、天神様であり、御存じ、菅原道真
を祀った神社である。学者としては右大臣にまで出世した人物で
あるが、それを妬んだ政敵との争いに敗れ、大宰府に左遷させら
れた。そこで、いざ京都を離れる時に作った悲痛な短歌が
東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて 
春な忘れそ
」という有名な歌である。春になって、東から西に吹く
風があれば、梅の花よ匂いを届けてくれ、と振り返りつつ詠んだ。
とにかく、道真は大宰府に来ても、まともな役職にはつけず、
窓際族だった。ヒマなので、近くにある天拝山(257m)に登っては、
「チクショー」とか「京都に帰りたい」とか叫んでいたらしい。しかし、
復帰がかなわぬままに59歳で死んだ。その彼の棺を車で運んだ
牛が途中で突然座って動かなくなったので、そこに埋葬したと
いうのが、今の天満宮の位置である。

大宰府1 ところが、道真の死後、京都朝廷では、道真を左遷した政敵達の
突然死が相次ぐのである。遂には、御所に雷が直撃した。これは
道真の祟りだというので、その怨霊を鎮めるために、朝廷が道真
を神として祀ったのが、大宰府天満宮であり、京都の北野天満宮
である。道真が学問博士だったことから、学問の神様になり、
受験生が多く参拝するようになった。多くの観光客はこの天満宮を
参拝して、参道の店で食事をしてそれで満足して福岡市に戻って
ゆくが、実はそれではせっかく歴史遺産の大宰府に来たのに
もったいないと思う。

大宰府というのは、平安朝において、京都に次ぐ西の都として
「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた行政府であり、その建物が
あった都府楼(とふろう)跡は、天満宮からそれて、少し先にある。
今は、広い芝生と礎石群が残っているだけだが、ぼくらが福岡に
住んでいた時には、大宰府に行くといえば、その広々とした都府楼
跡と周辺を散歩するのが好きだった。そして、その近くにあるのが
観世音寺であり、ここは、日本で初めて戒壇が設けられた寺なの
である。

日本に初めて仏教が伝えられたのは聖徳太子の頃だが、正式な僧
になるためには、高僧からの受戒という儀式が必要だった。しかし、
日本にはその資格を持った高僧がまだおらず、日本の学僧達は
中国に行って、高僧の来日を必死に請うたのである。しかし当時、
海を渡るのは命がけである。ほとんどの僧に断られる中、唯一人、
鑑真が応じてくれた。ところが、それからがまた大変だった。
中国側は高僧・鑑真を渡したくなかったので、いろんな妨害をしたし、
東シナ海を越えることも命がけの事であり、なんと6回も失敗しては、
命からがら海岸に打ち上げられたこともある。しかも、その中で鑑真
は失明するのである。それでも彼の使命感は衰えなかった。
10年後、ついに鹿児島の坊の津に辿り着く。65歳だった。
日本の学僧達は、泣いて喜び、まず、大宰府の観世音寺に戒壇を
大宰府2 設け、日本で初めての受戒を行なったのである。
その翌年には、奈良の東大寺に辿り着き、そこで中央戒壇を設け、
多くの修行僧に受戒を行い、晩年は、文字通り「唐招提寺」に住んだ。

ぼくは仏教に関しては別に好きでもなく、ましてや、近頃の葬式仏教に
成り下がった形は大嫌いで、戒名やらお布施やらで、民衆からお金を
ぼったくる習慣など、クソみたいなものだと思っているし、あんな仏教
式の葬式など、全廃するほうがいいと思っているのだが、ただ仏教が
日本の歴史において、学問の習慣を確立したことだけはよかったし、
ついでにいえば、人間の欲望を抑えて、律するということを教えてくれ
たことは大きい。なにしろ、日本における古代神道というのは、とても
エロチックであり、あらゆることについて奔放だったからである。
西洋人は人間を野獣と違うものにしてくれたのが、キリスト教だと
考えているが、東洋の場合はそれが仏教だったのかもしれない。

とにかく、ぼくは唐僧・鑑真と、彼を招聘した日本の留学僧の熱情
を描いた、井上靖の小説「天平の甍」を読み、それを映画化した
ドラマを観て感動した。それ以降、大宰府を歩くと、天満宮よりも、
観世音寺に対して、感動を覚えるのである。
(2016年7月)


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