石の2 福岡ツイン・ドーム・シティの夢


ドーム1 ぼくら夫婦が東京から福岡に引っ越したのは1986年、ちょうど
バブルの頃。妻は独自に自分の仕事を探したが、その時に新聞で
見つけたのが「ダイエー・リアル・エステート」の社員募集である。
福岡ドームを建設するためのダイエーの子会社だった。募集は27名。
それに応募してきた人数3000名。妻の優子も果敢に応募した。
3次に渡る試験と面接があったが、なんと妻は合格して正規採用に
なったのである。ぼくらは飛び上がって喜んだ。なにしろ当時のダイエ
ーというのは、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。スーパーストアとして、
初めて三越や伊勢丹などのデパートの売り上げを抜いて、日本一の
流通小売業になり、その絶頂期だったのである。その資金力をもって
何にでも挑戦してやるという意気込みにあふれていた。

当時、福岡市では博多湾の百道浜を大々的に埋め立てて、広大な
敷地を造成し、「よかとピア」という世界中から施設を募った福岡博という
万博みたいなことをやって賑わったのだが、その後をどういう風に使おう
かと思案していた。そこに、神戸のダイエーが進出したいと申し出て
きたのである。福岡の商業界はそれならば、地元にそれなりの貢献を
して欲しいと言った。すると、ダイエーの中内功は、では東のTDLに匹敵
するようなものを作ってみせようと、「ツイン・ドーム・シティー」構想を立ち
上げたのである。そして、ドームの一つはドーム球場にして、そこを拠点の
プロ野球団まで持って来ると約束した。それがダイエー・ホークスだった。

とりあえずは、ドーム球場とホテルを海辺に建設することになった。実際に
建築するのは、大手建設会社のジョイント・ベンチャー(JV)だが、彼女の
会社はその施主であり、どういう建物にするかを企画する会社である。
そして、福岡ドームが完成したのが1993年である。開会式には、福岡人
であるタモリや筑紫哲也や井上陽水などがかけつけ、オープンを飾った。
2年後には隣接する「シーホーク・ホテル」も完成した。博多湾を見下ろす
ドーム2 景観が素晴らしいリゾートホテルであり、個性的な趣があり、全国的にも
注目された。そして、彼女の社員優遇のおかげで、ぼくらはそのホテルに
割安で泊まることが出来たし、福岡ドームでのダイエーホークスの試合も
タダで観戦することが出来た。ドーム球場というのは、本当に素晴らしく、
ライトに照らされた内部は、試合観戦のために、そこに一歩入るだけで、
まるで別世界に居るような、夢の中にいるような気分になったものだ。
それと同時に、彼女は多くの仲間と共に、ツインドームの社員に移行して、
幹部の秘書になり、ドームクィーン達のまとめ役をやったり、長嶋茂雄さんが
来た時には道案内もしたという。「あ、どーもどーも」と、ついて来たという。

しかし、ツイン・ドームの夢はそう永くは続かなかった。
バブルが弾けると、一気に経済が冷えたのである。ドームを2つ作るなど
という夢は崩れ去った。それに、福岡ドーム自体も、ホークスの試合の
間に、いろんなイベントやコンサートなどで利益を確保しなければならなか
った。マイケル・ジャクソンや、ホイットニー・ヒューストン、マドンナや、
ローリング・ストーンズのコンサートなどを誘致し、我が妻もその裏方で、
仕事をこなしながら、彼らの生の音楽を聞いていたという。

そういう時の話であるが、フランク・シナトラの福岡公演が企画されたこと
がある。アメリカでは大御所のエンターテナーであるが、どうも過去の人で
あり集客が良くないとわかった時点で、キャンセルしようとした。ところが、
年配の人は良く知っているように、シナトラの後ろにはマフィアがついている
のである。映画の「ゴッドファーザー」でも、そのことが描かれているのは
知る人ぞ知るである。映画は別にして、当時のツインドーム社長は、中内功
の次男の中内正だったが、そういう理由で赤字覚悟でやるしかなかった。
そして、これはウワサであるが、そのゴタゴタのあおりで、ツインドームの
幹部の一人が、当時ダイエーが所有していた、ハワイ最大のショッピング
モールである「アラモアナ・ショッピングセンター」の社長へと、仕方がなく、
栄転?になったと言われている。

ドーム3 それからしばらくして、ぼくらは妻の両親のケアをするために仙台に引っ越し
することにしたが、彼女が福岡ドームの社員を辞めることになった時、当時の
仲間が、妻の送別会を福岡ドームの特別室で盛大にやってくれた。そして、
皮肉なことには、ぼくらが球団創立から見守り続けたダイエー・ホークスは、
ぼくらが仙台に来た1996年に、ついにみごと初優勝したのである。福岡が
歓喜の渦中にある頃、何の関係もない仙台はシーンとしていた。これだけは
さすがに寂しかった。その後もダイエー・ホークスは快進撃を続けたが、
ダイエー本体は確実に凋落してゆくのである。

ダイエーが傾いた理由は、バブル崩壊が大きい。当時の流通業界は、
東のイトーヨーカ堂と、西のダイエーが2分していたが、イトーヨーカ堂が
利益重視だったのに比べ、ダイエーは薄利多売を基本に規模拡大を行って
いた。ところがバブルが崩壊すると、ダイエーが買いまくっていたあらゆる
資産が目減りし、安く売るしかなかった。そこに追い打ちをかけたのが、
神戸の大震災だった。その頃、中内功は、長男の中内潤に後を継がせて
いたが、この御曹司がその後の舵取りを誤ってしまったのである。
そして球団は、ソフトバンクに身売りされて、ソフトバンク・ホークスになり、
ダイエー・シーホーク・ホテルも、ヒルトン・シーホーク・ホテルとなり、
ついには、ダイエー自体がイオンに合併されてしまった。残念である。
でも、ぼくらはドライブの時に、時々、ダイエー・ホークス応援歌のCDを
流して二人で歌ったりして懐かしんでいる。
(2016年2月)

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