石の2 昔の映画館


映画館1 映画館が、全席指定となり、一回の上映ごとの総入れ替え制になった
のは、米国在住の映画評論家でコラムニストの町山智浩さんによると、
1980年代の「スター・ウォーズ」の大ヒットによる影響だという。CGの
迫力が素晴らしく、子供や若者が何回も続けてみるので、新しい客が
なかなか席に座れない。それで仕方なく導入され、それがあらゆる映画
館に広まったそうである。それがアメリカから日本にも広まった。

それまでの昔の映画館というのは、座席が今程の斜面になっておらず、
そのため前の座席の客の頭でスクリーンが遮られることが多かった。
特に座高の高い奴が前に座ると最悪だった。ぼくらは、その間から頭を
右に左に動かしながら苦労してスクリーンを眺めたのだ。しかも、当時は
大人といえば煙草を吸う人が大半で、映画館でも平気で吸っていたので
スクリーンの前に煙草の煙がゆらいでいた。そして、映画館への入場は
いつでも自由だったので、映画の上映中に、突然後ろのドアを開けて入
ってくる人がいると、その度に外の光が指し込んで困っていた。さらに、
座席指定もなかったので、人気のある映画の場合は、立ち見客も多かっ
たし、通路に新聞紙を敷いて観ている客もいた。そして、総入れ替え制
ではなかったので、同じ映画を繰り返し観てもよく、ヒマつぶしに来てい
る客も多かった。
映画の途中の休憩時間には、売り子が歩き回ってアイスクリームを売って
いたりした。ゴミは座席の下に捨ててよかった。実に乱雑だったが、それでも
活気があった。喜劇では、お客はギャーギャーと笑っていたし、ヤジを飛ば
す者までいた。映画とはそういうものだった。

映画館2 そして、ぼくが子供の頃から大学生時代まで、映画は常に2本立てだった。
一作品毎の上映になったのは、1980年代だったかもしれない。しかし、
貧乏大学生の多くは封切館などには行けない。そこで続々と生まれたのが、
安い名画座である。封切りから少し時間を経て、人気があったものを2本立
てでリバイバル上映する。特に大学生に人気だったのが、池袋の文芸座
地下、飯田橋佳作座、銀座並木座、新宿日活名画座などである。こういう
映画館は、館主自体がみんな映画評論家ばりの持論を持っており、映画
監督の特集などをやるのである。そして当時は全世界的に、若者が反体制
運動をやったニューウエーブの時代だった。映画作品もそれに呼応して、
若い映画監督が次々に新しい感覚の、過激な作品を作り出していた。
だから、若者は名画座でやる作品なら、どんな内容か知らなくても、
とにかく観まくった。そのために、時には珍奇な経験をすることもあった。

ある日、ヒマだったので新宿日活名画座に行ったのだが、その日は
「真夜中のパーティー」ともう一本だった。どんな作品かわからずに
とにかく入ったのだが、何やら会話が奇妙で哲学的で難しい映画である。
途中から入ったので、よくわからないまま休憩になり、廊下のソファに
ぼーっと座っていたら、スーツにネクタイで眼鏡をかけて頭のハゲかけた
中年のサラリーマン風の男が、ぼくの横にやってきて密着して座り、ぼくの
太腿に手を置いてくるのである。ぼくはゾッとして、映画の続きを観ること
もなく、すぐに黙って映画館を出たのである。後で知ったのだが「真夜中の
パーティー」というのは、アメリカ映画で初めて堂々とホモ・セクシュアルを
映画館3 描いた画期的な作品だったのだ。
その後も、渋谷に全線座という有名な名画座があり、そこに行って満員
だったので、後ろで立って観ていたら、また変な男がすり寄って来たので
気持ち悪くなって出たことがある。後で雑誌を読んで知ったのであるが、
渋谷全線座というのは、後ろの立ち見の場所が、ホモの出合いの場と
なっている映画館として有名なのだという。そんなの知るかい。

とにかく昔の映画館というのは、入場料さえ払えば出入りが自由なので、
寝ている人もいれば、一日中居続ける人もいたし、いろんな使い方を
されていたのだ。ところが、今ではシステムが全く変わり、シネマ・コンプ
レックス(複合映画館)というのが普通になってしまった。一つの劇場では
なく、幾つもの大中小のシネマホールに別れていて、人気のある映画は
最初は大で行い、客が少なくなると、中、小と客数に合ったホールに切り
替えてゆく。実に合理的である。そして、上下の席は斜めに角度がつけて
あり、他人の頭がスクリーンを邪魔することもない。しかも、どの映画館も
ピカピカに清潔だ。快適になったなあと感心する。
(2016年5月)


石の3 目次に戻る