石の3 宮城県の有名芸能人


まさとし まず、中村雅俊である。70年代の青春男であるが、今や、
五十嵐じゅん子と結婚して、理想の夫婦NO.1と言われている。
この人は、県北部の漁港の町、女川(おながわ)の出身。

県南部では、日活映画黄金時代の、小林旭の敵役として
有名な「エースのジョー」こと宍戸錠がいる。白石市出身。
白石城に行くと、地元の観光ビデオにしっかり出演している。

「仁義なき戦い」の主役、菅原文太もこちらである。
映画では広島弁をしゃべっていて、凄みがあるが、地元では
宮城米の宣伝CMに出ていて、のどかな仙台弁を話す。

女性では、若尾文子、篠ひろ子、鈴木京香という、
和風美人の流れがはっきりしている。しっとりした、
大人のオンナで、いずれも仙台の国分町の小料理屋に
実際にいそうな感じがする。

ただ、仙台女として、違う方向で最近やたら活躍しているのが、
森 公美子(くみこ)である。 おデブのオペラ歌手というより、
今や、陽気なバラエティタレントとして人気がある。
この人の半生記をテレビでやっていたが、
あまりにおもしろかったので、抜粋する。

彼女は、仙台市の中心街にある、有名な「森旅館」の娘として生まれた。
写真でみた感じでは、古い木造の日本旅館だが、当時は、
もりくみ2 グループサウンズの全盛の頃の、スパイダーズや、タイガースが
泊り、プロレスのジャイアント馬場なども定宿としていた。

ある朝、小学生だった公美子は、玄関にジャイアント馬場の靴を
見つけて、たまげる。「これは絶対、クラスのみんなに見せよう」
と思い、その靴を履いて学校に向かう。
 旅館では、馬場の靴が無くなったと大騒ぎした。一方、公美子も
なにせ大きな靴だから、歩く度に脱げるし、往生していた。
 途中、顔見知りのおまわりさんに出会って、連れて帰られる。
父達に出迎えられた公美子は「怒られる!」と覚悟したというが、
父は一言
「そうだよなあ、馬場さんの靴をみんなに見せたいと思うよなあ」。
実に優しい父だったのだ。というより、自分の気持ちを親が
わかってくれたというのが、嬉しかったという。

中学生の時に、あるきっかけでオペラを鑑賞した彼女は、
オペラをやろう、歌を歌いたいと決意、東京芸大音楽学科に入学。
20才の時に、「成人式の振袖の代わりに、イタリアへ音楽留学
させて欲しい」と親に頼み込む。
 森旅館の経営はかんばしくなかったが、がんばる公美子に根負け。
借金をして、100万円を持たせてイタリアに見送った。

意気揚々とイタリアに渡った公美子だったが、まず言葉の壁に苦しみ、
それでもがんばったが、ある時、歌のうまいクラスメイトに
もりくみ4 「オペラを最初に聞いたのは、何歳の時?」とたずねたら、
「そうね、母のお腹の中にいた時かしら」と言われる。がーん!
イタリア人ならではのオペラ文化の層の厚さに、圧倒されたのだ。
自分は所詮、カルチャーセンター程度だと、激しく落ち込む。
自信喪失して、日本の父に電話をかけ、
「あたし、歌手になる自信がなくなった」と告白する。

すると電話の向こうで、父は、
「おまえが歌手になれるわけねっちゃ。
んだら、イタリアを精一杯楽しんでこ。帰ってきたら、父ちゃんに
うまいスパゲッティを食わしてくれたら、ほんでいいっちゃ」
と言ったという。
 それで、公美子は一気に肩の荷が降りて、イタリアの生活を
満喫し始める。毎日、おなじみのレストランに通って
いろんな人々とワインを飲みながら、おしゃべり三昧。
 ヨーロッパ旅行もして、オペラと違ったミュージカルの
楽しさを見つける。それが、日本に戻ってからの活躍の場を
見つけることになったという。

この人は、話がうまくて、おもしろいエピソードにかかない。
小学生の時に、理科で、フナを生体解剖する実験をやった時、
みんながナイフで恐る恐る、フナを切ろうと、ちゅうちょしているのに、
彼女は、魚については旅館の手伝いで慣れていたために、
もりくみ3 さっさと、フナを三枚におろしてしまったという。
食べるんじゃないってば。
先生から「浮き袋はどこにやった?」と聞かれて、
内臓はとっくに捨ててしまったので、慌てたという。
 それでも、家に帰ると、やはり父から、
「小学生でフナを三枚におろせるやつはめったにいない」
と褒められたという。そのせいで、天真爛漫に育ったらしい。
 この世に、自分を絶対的に認めてくれる誰かが存在している
という人生ほど、心豊かなものはない。

彼女は、名をあげてからは、ニューヨークの暮らしも多いが、
あちらで、アメリカ人に「日本語で相づちを打つ場合、
なんと言えばいいのか?」と聞かれた場合、必ず、
んだ」と言えと教えているという。
ニューヨークっ子が、東北弁をしゃべる場合、必ずそれは
森公美子のしわざである。


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