石の2 羽黒山の五重塔の美しさ


羽黒1 五重塔といえば、ぼくは今まで、奈良の法隆寺の五重塔や、
京都の東寺の五重塔、あるいは日本で最も美しいと言われる
山口県の瑠璃光寺の五重塔など、青空に屹立としてそびえる
姿が代表的なものだと思っていた。ところが、山形県の羽黒山
の五重塔を見て、今までとはちょっと違うタイプの美しい五重塔も
あるのだと初めて知った。なにしろ、それは山裾の杉林の中に
埋もれてひっそりと、立っているのである。しかも、それが実に
魅力的なのである。ぼくはそれを眺めて、うっとりとした。

羽黒山の神社は正確には、出羽三山神社という。出羽の国の
月山(がっさん)、湯殿山、羽黒山の三つの山の頂上にある
神社が古代から修験道の聖地とされており、参拝に登る人も
多かったが、なにしろ月山は2千m、湯殿山は千mと高山なので、
登ること自体が大変だし、冬は山がすっぽり雪に埋まってしまう。
そこで、一番低い標高414mの羽黒山に3つまとめて参拝出来る
ように出羽三山神社というのを作って、参拝し易くしたのである。

神道というのは、こういう風に分霊が簡単に出来るのが良いところ
である。だいたい、日本中の神社の祭りというのは、その神様の
御魂が、御神輿(おみこし)という乗り物に乗って、本殿から遠い、
海辺なり町なりに出かけて行って、人々に参拝し易くするという行事
である。人々は、神様がやってきたというので拝み、飲めや歌えで、
歓迎し、喜び、大騒ぎして楽しむというものである。
日本中に八幡神社や、熊野神社や、稲荷神社や、春日神社が
ありとあらゆる町にあるのも、分霊ができるからである。しかも、
羽黒2 どこの神社に行っても、本殿に主神を祀っている参道の脇に、
コンパクトな祠がいくつも並んでいて、それが日本中のあちこちから
分霊してきた神社の御魂である。それは神様のオンパレードで
あり、いろんな神様が出張屋台を並べているようなものである。
これだから、ぼくは神道が好きなのである。

ただ、五重塔というのは、神道ではなく仏教の建物である。元々は、
お釈迦さまの骨を納めて祀った仏舎利塔であり、インドでは土で
造られた丸型のものだったのが、中国から日本に伝えられて、木造の
五重塔になったのである。いわば慰霊塔なので、上の階に登るように
は出来ておらず、写経を納めるだけの施設である。そして、修験道とは
仏教僧が解脱するための修業が、日本古来の自然崇拝の山岳信仰と、
結びついたものである。仏教が渡来した時には、日本には日本古来の
神がいるのだから、そんな外国の宗教は要らないということで、蘇我氏
と物部氏との紛争が起こったが、結局、聖徳太子により仏教は国教と
して取り入れられた。といっても、一神教と違って、教義上の対立が起こ
ることはなかった。なぜならば、神道というのは本来、自然災害が多い
日本において、自然のエネルギーを神の怒りと考え、災いを起こさない
でくれと祈るものである。それに対して、仏教は個人の幸福や不幸を
羽黒3 なんとかしてくれと祈るものだったからだ。よく考えてみれば、喧嘩する
必要もなかったので、すぐに一緒になり、神仏習合ということになった。
だから、神社も寺も日本では同じ敷地内にある。

ただ、明治維新の時に、数年間「神仏分離令」というのが出された。
天皇を中心とした中央集権国家を作るために、神道を仏教の寺院よりも
上に置こうとしたのである。それは決して廃仏令ではなかったが、日本
全国で仏教寺院が壊されるという事態が発生したのである。どうも、
仏教の寺の権威というのは、庶民からは、あまり好かれてはいなかった
のではなかろうか。全国でものすごい仏教寺の破壊が進むことに対して、
明治政府はあわてて廃仏令ではないと強調したが、既に多くの寺が焼か
れていた。羽黒神社に登る石段の途中には、多くの仏教寺院があった
が、それが数年の間にことごとく壊されてしまっていたのである。しかし、
五重塔だけは無傷で残された。その見事な姿に、壊すのをためらった
のではなかろうか。それほど素晴らしいものであり、国宝になったのも
うなずける。山形に来たなら、一度は見て欲しいと思う。
(2016年7月)


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