石の2 廃仏毀釈…捨てられた仏達


廃仏1 山形の羽黒山神社に行った時も、長野の戸隠神社に行った時も
そうだったが、日本全国の、山を抱えている大きな神社に行くと、
その大きな杉並木の参道の両側に、雑草に覆われている不自然な
広場があることが多い。説明板を見ると、昔ここには仏教の大きな
堂塔伽藍や、僧侶達の宿舎や学問所である僧坊があり、山全体では、
僧坊が千幾つもあったという。それが破壊されたのは、明治初年に
起こった「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」のためだと説明がある。
廃仏毀釈とは、仏教を排斥して、仏像や寺を打ち壊せということである。

しかし実際に明治政府が出したのは「神仏分離令」である。
奈良時代以来、日本では太古からの神道の神社と、インドから中国を
経て新しく日本に入って来た仏教の寺院が仲良く同居していたが、
それを切り離そうというのである。
その理由は、王政復古によって、天皇を中心に国家を作ろうと
決めたのだから、天皇の先祖である神道の神々を祀った神社を、
優位に置いて、より際立たせようというイメージ戦略である。
だから、必ずしも仏教を否定する布告ではなかった。ところが新政府
が予想した以上に、過激な廃仏運動が全国に起こったのである。
それを廃仏毀釈と呼ぶ。

特に激しかったのが、水戸、薩摩、長州、それに岐阜や紀州である。
つまり、尊王攘夷の起爆剤となった土地である。
その思想エネルギーとなったのが、儒学が発展した朱子学だった。
朱子学とは、主人に対する忠誠心を、絶対の正義とする。
その思想を江戸時代に採用したのは徳川家康であり、全国の大名が
徳川幕府に対して忠誠を尽くすことを期待した。それはとてもうまく
いって、そのおかげで徳川300年の平和が保たれたのである。
ところが、幕末になって「日本国の本当の主人は天皇ではないか?」と
いう考えが湧いてきた。その言いだしっぺが、徳川御三家の一つである
水戸家だったというのが歴史の皮肉である。
やがて、その思想が日本中に広まり、幕府を倒せとなったのである。

天皇を主人と考えると、神道の神社の中に、仏教がでっかい顔を
しているのが許せないとなり、そこで、全国的に徹底的な廃仏毀釈が
行われ、多くの寺が打ち壊されたり、焼かれたりした。多くの僧侶も
還俗させられ、あるいは神官に転職した。仏教の修行をしてきた僧侶
がそんなに簡単に宗旨替えをして神官になるのを納得したのも
不思議であるが、それだけ仏教というのは葬式仏教やら、幕府が
廃仏2 民衆を管理するための組織に堕落していたからということである。
なにしろ、当時から戒名にそれ相応の金を出さなければ、台帳から名前を
外して外人にするぞと脅す寺も多かったらしい。現代でも、戒名で金儲けを
している寺が多いのは似たり寄ったりである。だから、民衆が進んで寺の
打ち壊しを行ったのである。もし、今でも葬式において、仏教が関わらなけ
れば、葬式費用ははるかに安く済むはずである。

現在、国宝となっている奈良の興福寺の五重塔ですら、一時は、当時の
金額で25円で売りに出されたのである。危うく薪になるところであった。
しかし、あまりの過激な廃仏運動が広がったために、新政府もこれでは
日本伝統文化の破壊だと危ぶみ、決して仏教を廃止しろという命令ではない
と強調して、神仏分離令を半年で引っ込めてしまった。賢明であった。
現代、イスラム過激派が、偶像崇拝は自分達の教えに合わないとして、
バーミアンの古代遺跡を破壊して世界中からヒンシュクをかっているが、
明治政府はそういう愚を犯さずに済んだのである。だから、日本には今でも
多くの寺院や仏像が残り、国宝として大切にされている。

ただ、明治新政府は、明治4年に社寺の領地を、境内を除いて没収する令を
出した。それまで社寺は広大な領地を持ち、その経営は各藩の援助によって
支えられてきたが、貧乏な新政府にはそういう余裕はない。仏寺はもちろん、
神社ですら、国家神道にかなうものを除いて、領地を没収した。
神仏分離令には、そういう経済的な理由もあったのである。
(2015年3月)

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