石の2 かわいそうな支倉常長


支倉1 江戸時代の初期、伊達政宗の命を受けて、スペイン、ローマに
渡った人物である。その目的は、伊達藩が南蛮貿易を独自に
行おうとした、あるいはスペインの軍事力を頼って徳川幕府に
対抗しようとしたなどと言われている。どちらの可能性も探れ
と言われていたのかもしれない。まだ、徳川幕府がキリスト教に
ゆるかった頃に幕府の許可を得て、政宗が計画したのである。

船は今の宮城県・石巻市の月の浦で、スペイン人宣教師の
ルイス・ソテロの指導により建造された。今そこは、船の名を
取った「サン・ファン・バウティスタ館」として公園になっており、
実物を復元した船を浮かべた立派な施設になっていたが、
2011年の東日本大震災の大津波により大損害を受け、ぼくら
が行った2016年には、船の内部は立ち入り禁止になり、修復
の見通しも立っていないという残念なことになっていた。しかし、
江戸初期、日本で建造された唯一の大型の西洋船なのである。

1613年、支倉常長(はぜくら・つねなが)を正使、ソテロを副使
とした一行は太平洋に乗り出た。嵐に会いながらも、太平洋を
乗り切って、当時スペイン領だったメキシコに着く。そして、船を
乗り換えてスペインに渡ってスペイン王に謁見し、さらにはローマ
に行って教皇にまで謁見を許される。どこでも大歓迎され、貴族
の待遇を与えられ、キリスト教に入信する。ところが、その頃、
徳川幕府がキリスト教を禁止したという情報が西欧に入っていた。
さらに、伊達藩というのも、地方の権力に過ぎないという情報も
宣教師によってもたらされていた。その結果、スペインもローマも
支倉2 常長に急によそよそしくなったのである。結局、何の成果を得る
こともなく、彼らは帰国するはめになる。

8年を費やして帰国した常長は、政宗に帰国報告をするが、
当時、伊達藩を危険視していた徳川幕府は、伊達藩がキリスト教
禁令を順守するかどうかを、幕府への服従の証にしようと見つめて
いたため、政宗は毅然として、常長に蟄居を申し付けたのである。
NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では、政宗役の渡辺謙が、常長に
それを言い渡すのであるが、常長を演じていたのが、仙台出身で
「青葉城恋歌」で有名な歌手のさとう宗幸である。彼がキリシタンの
西洋服を着て泣きそうな顔をして「え!それでは今までの私の努力
は何だったのでしょうか?」と、うろたえる場面が印象的だった。
常長は蟄居させられ、失意激しく2年後には病死。その息子も、
家来にキリシタンがいたために処刑され、支倉家も断絶されたと
いう。悲運である。かわいそうである。

ところが、先月たまたま宮城県北部にドライブをしていたら、
大郷町の道の駅で、支倉常長が晩年は、ここ大郷町に住んでいた
という住居跡の碑があり公園になっていた。その紹介によると、
帰国して蟄居させられたが、この目立たない田舎で30年以上も
生き、82歳で死んだという。それがこの土地で当たり前に伝えられ
ている史実だという。彼は西欧での経験を何冊もの文献に書いたと
いうが、その文書は行方不明であり、もしかしたら、近辺の寺社か
支倉3 庄屋の蔵に眠っているかもしれないという。そして、常長が2年後に
病没したというのは不自然であり、家臣思いの伊達政宗がそこまで
冷たい仕打ちをしたというのも、やはり不自然なのである。

実際、大阪城夏の陣で、家康を脅かした真田幸村の子供達を
密かに匿って、伊達の家臣としたことは史実であるし、伊達政宗は、
どこまでも密かに徳川家に抵抗していたのである。真田の子孫は、
後に、伊達藩の武将として六文銭の旗を公認され、支倉家の子孫
も後に伊達家家臣として再興を果たしている。どちらも、伊達藩が
後期の徳川幕府と交渉して認めさせているのである。

ちなみに、スペインに渡った支倉常長一行の乗組員の一部は、
キリスト教に改宗したが、それが日本では禁教になったことを
知り、帰ると打ち首になるかもしれないと怖れ、スペインに留まり、
当地の女性と結婚した。そのため、その土地には、日本人を意味
するハポンという名字を持つ一族が数百人もいるという。最近では
何度もテレビで紹介されるようになった。
(2016年10月)


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