石の2 岩手県・平泉ー縄文文明


平泉と言えば、中尊寺の「金色堂」が有名である。
ひらいずみ五月雨の 降り残してや 光堂」と芭蕉が詠んだ。
さすがに観光客が多い。駐車場を囲む観光店では、
たいてい、2階の座敷で、名物「わんこそば」をやっており、
ツアー客がドドッと上がって、ワイワイ食べて
おもしろがっている。
ぼくらは、二人で一階の普通の椅子席に座りながら、
この席でも、わんこそばをやってくれるのかと聞くと、
「やります」とのことだったが、どうもあの早食いレースを
二人だけでやってもらっても楽しそうにないので、
普通のそばを食べて済ませた。

平泉の観光といえば、中尊寺ばかりに行きがちだが、
本当の平泉を知るには、そこから車で5分の、
毛越寺(もうつうじ)」にこそ行くべきだと思う。
広々とした池を囲む社寺の遺跡が広がっている。
現在、周辺は田んぼになっているが、それが全て
屋敷群の敷地跡なのである。
黄金文化を築いた、東北・藤原氏は、この平泉に
京都と同じような都市を建設しようとしていたことが
よくわかる。

藤原三代とは、藤原清衡、基衡、秀衡の三代であり、 アテルイ
実は、大和朝廷の東北侵略に対して戦った、
先住日本人・縄文人(蝦夷)の酋長・アテルイ、
そして、その子孫の、阿部氏の親族なのである。
つまり、京都朝廷・弥生人の藤原氏とは全く違う。

昔の教科書では、狩猟・縄文から、稲作・弥生へと、
日本の文化が変化して、大和朝廷が生まれたように
書かれていたが、それは違う、ということが最近ようやく
わかってきた。
実は、縄文人は稲作の文化も、大建築をする文化も
持っていたのだ。ただ、弥生人の方が大陸の最先端の
鉄製の武器を持っており、征服欲が強かった。いわば、
アメリカ大陸における白人である。縄文人はインディアン
という図式になる。そして、
弥生人と縄文人の戦いは、鎌倉時代まで続いた。
その主な舞台が東北なのだ。
平安後期、縄文人の酋長・アテルイは惨殺された。
しかし、その後裔である東北・藤原氏は、東北の
土地に豊富に産出される黄金の力を背景に、
京都朝廷と同等に交易し、積極的に京都文化を
取り入れた。
それが平安後期における、東北・藤原三代の
ころもがわ 平泉・黄金文化なのである。

ところが、鎌倉時代になり、東北・藤原氏が犯した
失敗が、頼朝から追われた源義経をかくまったことだ。
頼朝から、「かくまえば、おもえも同罪だ」
と脅迫され、4代目はついに、義経を襲って殺す。
義経が住んでいた館跡が、小高い丘の上に残っている。
そこで芭蕉が読んだのが、有名な
夏草や 強者(つわもの)どもが 夢の跡」である。
今も雑草が生い茂り、ひっそりとしている。
4代目はせっかく義経を殺したのに、頼朝から、
「どっちみち同罪だ」と言われて攻められ、結局、
藤原氏は滅亡する。
もともと、鎌倉幕府としては、東北の
縄文人一族を滅ぼすつもりだったのだ。

ところがどっこい、その前に、縄文人・阿部氏の棟梁
であった、阿部貞任の子孫は青森に逃げていた。
彼らは「安東(あんどう)氏」と名乗り、そこでまた、 じゅうさんこ
見事な交易国家を築くのである。
 津軽半島に、十三湖(じゅうさんこ)というのがある。
そこは当時、まだ海と繋がっていて、その入り口に
港湾都市を築いたのである。名前を「十三湊(とさみなと)」
という。今となっては、伝説の港町である。
 さかんに船が出入りして、ずいぶん広範囲に貿易を
行なったらしい。ところが、台風と洪水で消失してしまった。
今でもかすかな遺構はあるが、確かな記録はほとんどない。
 現在、その十三湖は東北最大のしじみの産地である。
そこで取れるしじみは並みの大きさではない。
アサリくらいある。仙台のスーパーで、それを初めて
見た時、ビックリして、10分くらい眺めていた。

十三湊を失った縄文人・安東氏は、南北に別れる。
南へ土地を変えた安東氏は「秋田氏」と名乗る。
北の一派は北海道へ渡る。北海道にはアイヌがいた。
しばらくは、アイヌと協調して暮らしていたが、ある時、
アイヌとの間に戦争が起きる。「コシャマインの乱」である。
アイヌが負け、北・安東氏は江戸幕府から認められて、
松前氏」となった。北海道・松前藩の誕生である。 ねぶた

一方の秋田氏も江戸幕府の配下となり
大名として認められたが、すぐに千葉県に移封された。
 秋田氏は、大名として江戸時代を生き抜き、
明治維新により、子爵として貴族になった。
 ただ、おもしろいのは、江戸時代の大名は、
ほとんどが、先祖を天皇家の末裔として無理矢理、
家系を捏造するのが当たり前だったにかかわらず、
この秋田氏だけは、かたくなに、国津神のナガスネヒコ
を先祖としている。つまり、大和朝廷の天皇家に
敵対した縄文人(蝦夷)の血統であり、近くは
阿部貞任の子孫であると称しているのである。
そういう大名を貴族にしてもいいもんか、と
明治政府でも意見が出たが、まあ見逃しておけ
ということになったらしい。

日本の歴史は、弥生文化と、大和朝廷ばかりで
語られがちであり、ゆえに東北にはたいした歴史はない
と見られがちだが、どっこい、
先住民族・縄文人の歴史が色濃いのである。

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