石の4 「イザベラ・バード、東北をゆく」


イザベラ  イザベラ・バードというのは、明治11年、西洋人女性として、
初めて東北を旅行した、英国人旅行家である。
明治11年というのは、西郷隆盛の西南戦争が終わった翌年である。
東北から北海道までを、日本人通訳一人を連れて、駄馬で
3ヶ月かかって旅行し、「日本奥地紀行」という本を書いた。

 当時、長崎から江戸までの道はある程度、整備されていたが、
日光より北は、西洋人の場合、男性ですら旅行したものは少なく、
まともな街道もなく、情報も少なく、全く未知の土地だった。
しかも彼女は、生来の持病の脊椎炎を抱えており、
当時47歳である。よく行くよ、と思う。
ところが、彼女はそれまでに、未開のハワイや、アメリカの
ロッキー山地を旅行した経験を本に書いている売れっ子の
冒険旅行家だったのである。とにかく未開地への旅が好きであった。
たとえ、それがどんなに苦しい旅になろうとも、
彼女はゆくのだ。

 そして、予想通り、その旅行記を読むと、かなり悲惨である。
旅をしたのが、よりによって、春から梅雨という時期だが、 蚊帳
まず、すさまじいのが、ノミ、シラミ、蚊の大群である。
 畳に座ると、畳目の間から、ノミがざわざわと湧いてくる。
かゆくてたまらない。当時の日本人は、そのせいで、
多くの農民が皮膚病にかかっていたらしい。
 とにかく、毎日毎晩、ノミ、シラミ、蚊との戦いであり、
携行していった蚊帳と、簡易ベッドが救いだった。

 そして、日本はまだ江戸時代を引きずっている時代。しかも、
東北の田舎である。西欧人を泊めるような施設がないどころか
住民は白人すら見たことがないのである。どこに泊まっても、住民が
噂を聞きつけて、白人を一目見ようとわんさと押しかけてくる。
 障子には無数の穴が開けられ、多数の目が見つめるし、襖が倒されて
寝姿まで覗かれる始末だ。プライバシーを大切にする西欧人にとって、
それが、どれほどストレスだったことか。
 しかも、毎晩の騒音がすごいと、彼女の旅行記には書いてある。
イザベラ2 旅館に泊まる日本人は夜遅くまで、三味線を弾き、芸者をあげて
酔って騒ぐ。現代でもそうだが、静寂を大切にする西欧人から
みると理解できない猥雑な世界に見えたらしい。

 困難はそれだけではない。食事だ。
西欧人ならば、ステーキとサラダを食べたい。しかし、そんなもん
あるわけがない。何を食べたか?結局、米の飯を食べるしかない。
おかずに肉か魚が欲しいわけだが、東北の田舎に肉食はまだ普及
していないし、内陸では魚も多くはない。
 人々はもっぱら、味噌汁と漬物をおかずにしていたが、西欧人に
とっては、味噌汁という泥を溶いたようなスープはおぞましい味の
ものであり、漬物は腐った異臭を放つものでしかない。
 結局、ほとんどの食事を、ご飯と鶏卵で食べるしかなかった。
鶏卵は、ゆでたり、オムレツにした。たまに鶏肉にありつけることが
あると、それはものすごいごちそうだった。

 秋田を通過した時には、この土地では珍しい程の、長雨と洪水に
悩まされている。泥につかって山道を歩き、目の前で橋が流され、
山崩れでは危機一髪の目に合う。それでも彼女はゆく。
 青森から、荒波をついて北海道に渡る。
 やっと辿り着いた函館の、西洋人のいるキリスト教の伝道師館で、
ステーキを食べ、鍵のついた個室を与えられ、乾いたシーツのベッドで
眠ることのできた瞬間の喜びの記述は、読んでいても感動する。
 そこで辞めときゃいいのに、翌日には彼女は、さらに奥地のアイヌ部落
に向かって馬に乗って、また疲れる旅を始めるのである。ようやるわ。

イザベラ3  その悲惨な旅ながらも、彼女は日本の風景を絶賛している。
特に、山形県の内陸盆地の風景を絶賛していて、
 「東洋のアルカディア(理想郷)」とまで言っている。
山形県の米沢市から、南陽市、村山の山形市に至る、内陸の
広い盆地がそれに当たり、この地方では、イザベラ・バードの残した
その言葉でもって、今も村おこしをしているほどだ。
 確かに、山形県の内陸は、東北の中でも自然がすばらしく、
最初は、イザベラは日本の自然の豊かさに感心したのだなあ
と単純に思っていたのだが、実は少し違う。

 西欧人は人の手が加わって整然とした自然を美しいと思うので
あって、雑草の生い茂る野山は、不毛の土地として嫌うのである。
自然をそのまま受け入れようとする日本人の価値観とは大きく違う。
 日本人は無用な自然でも受け入れるが、西欧人は役に立つ自然
だけしか認めない。その意味で、当時の山形盆地は、隅々まで
人の手が加えられた整然とした果樹園あるいは、農園と民家の
風景だったのだ。
 山形県というのは、そういう昔の田舎の風景を今でもあちこちに、
有珠町 取り残している貴重な土地である。
ぼくらが現在、ドライブしても、あちこちに日本的な最高の
農村風景や、里山の風景を見つけることができる。

 ただ、基本的に荒地であるイギリスに生まれ育ったイザベラは、
生の自然についての美に関しては、あくまで荒地を好むらしく、
日本本土のような、むせ返る緑、のない北海道にやってきて
 「懐かしいような落ち着き」を感じている。結局、彼女が
「日本で一番美しい風景であり、天国である」と絶賛したのは、
火山の麓に広がる荒涼とした、アイヌの貧しい湖畔の村、
有珠(うす)だった。

●「日本奥地紀行」イザベラ・バード 平凡社

■イザベラ・バードは、日本紀行の前後、朝鮮半島にも
 行っていて「朝鮮紀行」も書いているが、当時の朝鮮がいかに
 文化的にも文明的にもひどい状態だったかを書いていて、
 多分、現代の韓国人は絶対、読みたくないだろう。

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