石の2 金時娘さんの思い出


金時1 先日、テレビで、所さんの「笑ってコラえて」を観ていたら、
金時山の金時娘さんが出ていたので懐かしかった。もう83歳。
金時山というのは、箱根の芦ノ湖を見下ろす標高1213mの山
で、昔の名前は足柄山。童話の「金太郎」が熊と相撲をしながら
育った場所である。金太郎が若者になった頃、京都から来て
この土地を通りかかった源頼光の目に止まり、彼の配下の武将に
なり名前も坂田金時と改めた。平安時代末期のことである。そして、
金時の活躍が有名になると、金時山と呼ばれるようになった。

ぼくらが金時山に登ったのは箱根観光をした32歳の時であり、
芦ノ湖畔のホテルに一泊した時、近くに気軽に登れて富士山が
よく見える金時山というのがあると聞き、よし登ってみようと思った。
翌朝早くバスに乗り、登山口から登り始めて1時間半、やっとこさ
頂上に着くと、いきなりワアーッと展望が開け、目の前に富士山が
デーンと聳えていた。快晴だった。二人でしばらく見とれていると、
後ろから「お疲れさん」と声をかけられた。頂上には茶店があり、
そこのおばさんが笑っていた。「ずいぶん早いね。あんたたちが
来るのが見えてたよ」という。そういうおばさんも、毎朝、麓の家
から登って来て、この店を開けるのだという。

そして、その時は午前10時だったが「10時を過ぎるとたいてい
富士は霞むよ、さ、早く」と言って富士を背景に、ぼくらの写真を撮
ってくれた。さらに、自分が撮った雲海の中の富士とか珍しい写真
のアルバムを見せてくれ、ぼくらが缶ビールを買って飲んでいると、
金時2 「私は硬いのはダメだから」と、豆類の袋の開いたのを、おつまみに
くれ、記念にこれに書き込んでと登山者ノートを出したので、ぼくら
の名前と住所を書き、続けて「快晴」と書いた。おばさんは、それを
見て「今日はほんとうに良い天気だねえ。こんなに富士がはっきり
見える日はめったにないよ」と喜んでくれた。そうするうちに、次々
に登山者がやってきたので、11時にぼくらは次の乙女峠に向けて
出発することにした。おばさんはぼくらに「いってらっしゃい」と
手を振ってくれた。おばさんは50歳くらいで、浅黒い肌なのに
髪を後ろで三つ編みにしていて、元祖・山ガールみたいだった。

しかし、チャラチャラした山ガールではない。ホテルに帰ってから
フロントの人から、あのおばさんが「金時娘」という有名な人だと
教えられたのだ。実は、この人のお父さんは小見山正といい、
伝説的な富士山登山の強力(ごうりき)なのである。強力という
のは、エベレスト登山の時のシェルパのように、山を知り尽くして
いて、荷物を運んでくれる荷役をやってくれる人である。作家の
新田次郎は、彼を描いた「強力伝」という小説で直木賞を受賞
した。しかし、小見山正さんは無理がたたり、45歳で亡くなり、
その娘さんが、金時小屋を継いだ。それが「金時娘」こと、
小見山妙子さんなのである。1954年の頃だ。

妙子さんは18歳から金時小屋を継いだが、毎朝、麓の実家から
小屋に登り、一人っきりで常駐していたために、悪さをしようと
する男もいたという。そのために彼女は柔道を覚え、変な男が
来た時には、スルスルと木に登ったりして難を逃れたという。
ところが、彼女が21歳の時に大事件が起きた。
脱獄囚が彼女を殺して有名になろうと、山に登ってきたのである。
というのも、金時娘として有名になった彼女は、当時の芸能誌の
金時3 「平凡」や「明星」のグラビアに俳優と一緒に映るくらいの有名人
になっていたからだ。犯人はナイフで彼女に襲いかかったが、
柔道を習っていた妙子は、脇腹を切られながらも、相手の股間を
思い切り蹴り上げたという。のたうち回る犯人をその場に置いて、
彼女は血を流しながら町に降りて警察に通報した。彼女は
それ以来、さらに有名人になった。21歳の時である。

そういうことをぼくらは全く知らなかったが、知っている人は知って
いたのだろう、今でも金時山を訪れる観光客の間では、金時娘さん
は大人気らしい。ただ、マナーをわきまえない客には実に厳しい
態度だということがネット上で書かれていたが、それは当然だろう。
マナーをわきまえない客は、客でも何でもない。そして写真撮影には
応じないというが、「笑ってコラえて」のように、ちゃんと取材すれば、
ちゃんと答えてくれるようだ。83歳だというのに、今でも麓の家から
小屋まで毎日、息子さんにおぶわれて登ってくるという。
(2016年10月)


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