石の2 メルヘンの清里高原、そして与論島

清里1 長野県の清里高原といえば1970年代から80年代にかけて、最も
魅力的な観光地として、日本中から注目された場所である。八ヶ岳
南山麓のなだらかな裾野が牧草地になっていて、遠くに南アルプス
や富士山までも見えるという、東京人が憧れる風景である。ただ、
ここがなぜ急激にクローズアップされたかというと、その頃、創刊され
たアンアンとノンノという若い女性向けのファッションと文化の雑誌が
大きいのである。この2紙はとにかく、清里を大々的にオシャレな町と
して特集しまくった。ペンションというのが流行し始めた頃でもあった。
ホテルや旅館と違って、退職した年配の夫婦がおもてなしをする小さな
ホテルということで、始まったのがペンションである。
駅前近くに集まった清里のペンションはどれもこれも、メルヘンチックで
当時としてはおしゃれだった。そのために、駅前商店街の土産物屋で
すらメルヘンチックになってしまい、通りには聖子ちゃんヘアーに、淡い
色のトレーナーの女の子達で、原宿のようににぎわっていた。

ぼくらも夫婦で、あるいは若い仲間と2回くらい行っては、清泉寮など
に泊まって、行列のできる有名なソフトクリームなどを食べたりした。
当時、清里に行くには、新宿から特急「あずさ号」に乗って、小渕沢から
ローカルの小海線に乗り換える。この小海線というのが、日本で一番
標高の高い場所を走る、いわゆる高原列車なのであり、これもおしゃれ。
小渕沢で乗り換え待ちの間に駅弁を買うと、高原野菜であるレタスを
使ったサンドイッチであり、実はレタスというのも、日本では1960年頃
清里2 からやっと広く食べられるようになった、まだオシャレな食べ物だった。
高原列車で行く清里は、夏に行く避暑地であり、風がさわやかだった。
当時の若者の一人暮らしのアパートにはクーラーもなかったし、東京の
夏は暑かった。そして、まだ若者がマイカーを持つ時代ではなかった。
だから、みんな列車を使ったし、だから清里の駅前商店街がにぎわって
いたのだ。

そして現在、清里駅前は人通りもまばらで、商店街はシャッター街に
なっている。1980年代の活況がウソのようである。1990年代にバブル
が弾ける頃には、女の子達は、ワンレン・ボディコンでセクシーになり、
メルヘンチックな清里からは、だんだん観光客が去って行った。では、
今の清里は廃墟になっているのかと変な期待を持って来る人がいるが、
人はいないけれど意外にきれいなままである。そして実は、清里高原の
真骨頂は、清里駅から少し車で走った郊外にある。元々、牧場や自然の
多い場所なのだ。そして、現在は車で来る人がほとんどなので、駅前が
廃れて当然だったのだ。今も、夏にはそれなりに観光客はいるし、むしろ
落ち着いたと言った方がいいかもしれない。

そして、清里がブームになっていた同じ頃、もうひとつブームになっていた
清里3 観光地がある。鹿児島県・奄美群島の与論島(よろんとう)である。本当は
「よろんじま」らしいが、当時はなぜか「よろんとう」とみんな呼んでいた。
暖かい南国の白い砂浜と透明な海。みんなが憧れていて、与論島に行って
きたと言えば自慢のタネであり、その人からおみやげの「星砂」の小瓶を
もらって感激していたものだ。では当時なぜ、与論島が人気だったのか?
実は、1973年に沖縄がアメリカから日本に返還されるまでは、与論島は
日本の最南端の島だったのである。
それまでは、日本人が沖縄に行くためにはパスポートが必要だったが、それも
必要なくなると、それ以後、沖縄のリゾート開発が急激に進んだのである。
今では沖縄よりもっと南端にある八重山諸島の、石垣島が大人気である。
与論島のブームは去ったが、今でもその海と浜の美しさは格別で、
特に百合ヶ浜の海の透明度は有名である。それにしても、ぼくらの世代が、
清里高原や与論島に行っていた頃は、まだ週の休みは日曜日だけだった。
日本で週休二日制が普通になるなんて想像も出来ない時代だった。
(2018年7月)

石の3 目次に戻る