石の2 日本料理は、小鉢の文化だった


小鉢1 10歳年上の友人で、仙台に来て知り合ったKさんがいる。
元テレビ・ディレクターだが、定年前に退職して、そば打ちを極め、
カルチャーセンターなどで講師をやっていた。
そのKさんが、2002年に、中年海外協力隊員に応募して、
2年契約で、ブラジルに渡った。

初めての海外暮らしでのカルチャーショック話を
メールでいろいろ送ってもらって、おもしろかったが、
その中に、小鉢の話があった。

休みの日に、日系人のみなさん相手に、そばを打ち
出来たてをふるまうと、「懐かしい!おししい!」
と、大変喜ばれたのだが、その時、
あることに気付いたという。
そばを食べる時には、つゆを入れる小鉢が要るが、
そういう器をブラジルでは売ってない、というのだ。

Kさんは、向こうで、陶芸の指導もしたので、
それならばと、小鉢をたくさん焼いて、ついでに、
市場で売ってみたという。すると、ブラジル人に、
小鉢2 「これは何に使うの?」と不思議がられたという。

考えてみれば、あちらでは料理は全て、皿に盛る。
小鉢を使う料理などは、存在しないのだ。
ブラジルに限らず、アメリカでもヨーロッパでも、
全ての料理が、幾つかの皿で済む。
簡単な料理なら、ワンプレートで済むのである。

一方、日本料理というのは、ほとんどが小鉢である。
ご飯や味噌汁からして、小鉢の形態であるし、
冷奴やおしんこ、納豆、和え物、あるいはスキヤキ、
それに、鍋物を食べるにしても、小鉢は欠かせない。
日本旅館に泊まって、夕食を食べる時には、
汁物から始まって、小鉢がずらりと並ぶ。

我々はその小鉢を手で持ち上げて食べるのだが、
これは、日本の食事が元々、銘々膳だったことによる。
畳の近くに器があるので、持ち上げざるを得ない。
持ち上げるのに便利に作られたのが、小鉢なのだ。

ところが、外国ではテーブルに座っていたので、
フォークや、スプーン、中国ではレンゲを使えば、
小鉢3 食器を持ち上げないで済むのだ。
それが、儒教の国・韓国では、食器を持ち上げて食べるのは、
下品だという意識にまで発展した。
日本人のように器に口をつけて汁を飲むなんぞ、
犬のようでみっともないと思うそうである。

それとは別に、小鉢の文化は別の展開もみせた。
食器を掌で扱ううちに、日本独自の美的感覚が発生したのだ。
左右対称や正円のみを美しいとせず、
「ゆがみ」を好ましいとする美の感覚である。
西洋庭園と、日本庭園を比べればわかる。
茶の湯に使われる茶碗は、装飾もなく、
ただただ、自然美の極みである。

欧米で食器は、工場製品であり、たまに、
工房で絵画や装飾を施されたものが美術品となるが、
小鉢4 日本では陶器をこねて焼くこと自体が、
陶芸という美術分野になった。
あちらの人の趣味には、そういうものはない。
北大路魯山人が焼いた魚皿は、日本でこそ名品だが、
あちらの人は、へとも思わないだろう。

結局、Kさんが、ブラジルの障害児施設の資金のために
指導して焼いて作った小鉢は、当地では、
「何のために使うかわからない」という理由で、
全く売れなかったという。文化の違いである。

ちなみに、Kさんは、2年間のブラジルを終えて
帰国したと思ったら、再び、同じ南米のパラグアイに
行ってしまった。これも2年契約である。
小鉢5 団塊の世代の尻尾にいる、ぼくなどは退職して、
さっさとなごみたいと思うのだが、日本の戦後を
繁栄へと導いてきた世代のKさんは、まだまだ
風を切って生きるエネルギーにあふれているようだ。




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