石の2 古代道路は広くて直線だった!

古代道路1 信じられないような話だが、古代の飛鳥時代から奈良時代、
平城京から、九州や東北にかけて、現在の高速道路のような幅の、
平坦な道路が延々と整備されていたという。しかも場所によっては、
きれいな直線道路が30kmも続いていたという。
現代の日本の道路で、最も直線の長い道路は、北海道にある
国道12号の29.2kmである。車で走っていると眠たくなるという。
そういう道路が飛鳥・奈良時代に、存在していたというのだ。

平城京や平安京は、当時の最先端の文明国であった中国の隋や
唐の都を真似て作られたことは知られている。碁盤の目に直線道路
が交差している。そして、中国ではそれが原野の彼方にまで伸びて
いた。日本から留学した役人達は、これが文明だと思ったに違いない。
邪馬台国の頃は、魏志倭人伝に書かれているように、中国からの使者
は松浦半島に上陸してからは、先も見えないくらいの藪の中の山道を
歩いていたのだ。だから、大和朝廷が成立すると、文明国として、まず
最初に、道幅の広い直線道路を造ったのだろう。

その道路の幅がこれまた尋常ではない、田舎でも18m、都の近くでは
30mから40mもあったという。江戸時代で、一番の主要道路は東海道
だが、その東海道ですら道幅は8mだったというから、すごい道幅である。
特に、中国からの使者が通る、博多の大宰府から近畿までの山陽道は
特に広く直線で、念入りに整備されたという。
しかし、中国と違って、日本は平地の少ない、山と川の国である。直線
道路を造るためには、山を削り、沼を埋めたりしなければならない。
古代道路2 さぞ苦労しただろうし、そのために使役された人数は大変なものだった。

しかし、それが可能だったのは、当時の日本が中央集権国家だったから
だ。つまり、大和朝廷では、天皇が全ての権力を持っていたのである。
だから、全国隅々の国民に対して直接、労役を課すことが出来たのだ。
また、その中央集権体制を維持するためにも、地方にすばやく兵を
送ったり、労働力を移動させたりする便利な道路が必要だったとも
言える。

しかし現在、当時の直線道路は残っていない。
なぜなら、平安初期になると、中央集権体制が崩壊するからだ。
天皇に代わって藤原氏が実権を握ると、各地で貴族や寺社が勝手
に土地を所有し、貴族の末裔達が武士、豪族となって土地土地で、
勝手に振る舞うようになった。そして、武士を代表する鎌倉政権が
生まれ、戦国時代、江戸時代になる。いわゆる封建時代である。

幅の広い直線道路はどうなったかというと、そこに武家屋敷が作られ
たり、畑になったりした。なにしろ、他国との境には、関所などを設けて
通行を遮断する必要があったから、幅の広い道路はむしろ迷惑であり、
古代道路3 道路はわざとねじ曲げられたのである。だいたい、どこの城下町でも、
敵が真っ直ぐ攻めて来られないように、喰い違いの通りになっている。

その後、日本が再び、中央集権国家に戻ったのは、明治政府になって
からである。しかし、その時になっても、幅の広い直線道路を復活しよう
という機運は生まれなかった。蒸気機関車が登場したからである。
車もなかった時代、鉄道さえ引けば、全国に高速輸送が出来たからで
ある。鉄道は万能だった。広く真っ直ぐな道路が復活したのは、1964年、
オリンピックのために、世界に見栄を張って高速道路を建設してからで
ある。ただ、それによって国産の自動車産業が飛躍的に伸びたのは、
思いがけないことだった。

こういう古代道路の発見は、1970年代からの考古学の発掘によって
次第に明らかになったのである。
参考:「日本の古代道路」近江俊秀(角川選書)
(2017年7月)

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