石の2 左翼の巣屈だった東京都小金井市


小金井1 ぼくは長崎出身、妻は仙台出身で、二人が出会ったのは、東京の
大学生時代に、アルバイトをしている時だった。1980年代である。
そして、付き合うようになり、社会人になって結婚したのだが、その
時に住んでいたのが、中央線沿線の小金井市だったので、そこに
新しくアパートを借りて新居を整えた後に、結婚届を出しに行った。
向かう先は、小金井市役所である。
ところが、これは後で知ったのであるが、小金井市役所というのは、
当時は左翼の巣屈だったのである。70年代の学生運動は、とっくに
衰えていたが、まだまだ、その共鳴者が労働組合などに、居残って
いたのである。

ぼくらの時代、中央線沿線に住む学生のことを、「バカの三寺」と呼ぶ
ことがあった。高円寺、吉祥寺、国分寺の各駅の安アパートに住む
大学生には男でも髪を長くした、芸術系やら、文学系、ヒッピーなどの
要するに反権力、反体制の若者が多かったからだ。その影響か、
東京郊外の武蔵野は、左翼的な市民が多く、後に民主党の首相に
なる菅直人は、ここを地盤として市民運動から出てくるのである。

その当時の小金井市役所であるが、古ぼけた小学校のような庁舎
だった。やたら贅沢して豪華な庁舎にするよりはいいと思うが、その
思惑は別にあった。庁舎を近代化するよりは、人件費に振分けようと
したのである。要するに、自分達で税金を山分けしようとしたのである。
左翼的な意見に反対する職員は、何かの理由をつけて除外する。
その結果、小金井市役所は、左翼崩れの人間の梁山泊になった。

ぼくらが二人して結婚届を出しに、小金井市役所に行ったのは、
小金井2 1979年の秋である。午後遅くで、書類を受け付けに出した後、
ずいぶん待たされた。ソファに座って待っていると、職員のみなさんが、
えらくラフな感じである。服装も勝手であり、廊下でキャッチボールを
やっていたりする。ついには、ぼくらが提出した結婚届の書類の周り
に、男女数名が集まって来て眺め、笑い合っておしゃべりしている。
何か不真面目そうな雰囲気である。
そのうちに呼ばれて行くと、「本籍地はどこにしますか?」と聞かれた。
ぼくらは本籍地は、親の実家なんだろうと思っていたのだが、勝手に
決めてよいらしく、「千代田区一丁目一番地でもいいんですよ」と言わ
れた。なんじゃそりゃ?と思った。そこは皇居である。ふざけていると
思った。結局、どこでもいいならばと、ぼくらは新居のアパートの住所を
二人の本籍地にした。だから、ぼくら夫婦の本籍地は今でも、東京都
小金井市である。

ずいぶん不真面目な奴らだと思いつつ、やっと受理されて帰ったのだが、
後で「週刊新潮」が、小金井市役所がいかにトンでもない場所であるか
を記事にしているのを読んでビックリした。
職員の一人に、老齢の男性がいて、その人の仕事というのは、一日に
一回、電車に乗って、東京都庁に書類を届けるだけだったという。その
人が仕事中に亡くなったというが、その死因が老衰だという。普通ならば、
とっくに退職なのだが、左翼の先輩ということで、雇い続けたのである。
とにかく、いかに役所が丸ごと、左翼崩れに占拠されているかの実態を
暴露する記事だった。民主党の菅直人は今でも、ここで選出されて
小金井3 国会議員のままでいる。

それはともかく、小金井市というのは、住むには、最高の環境だった。
武蔵野の自然がたっぷり残っていた。東には小金井公園、西には
野川公園という広大な公園があり、自転車で十数分の距離である。
最近、ジブリのスタジオも出来たと聞く。ジブリ・アニメの「借りぐらしの
アリエッティ」の風景のモデルは、小金井市周辺なのだという。
小金井公園にある「江戸東京たてもの園」辺りは、現在の明仁天皇が
皇太子の頃、戦後すぐに、疎開先の奥日光から東京に帰って来た時、
青山の東宮御所が焼けてしまっていたため、仮り住まいの住居を建て、
3年近くも住んでいた場所でもある。新婚当時のぼくらは、駅前の肉屋
で鶏の唐揚げを買い、酒屋でワインを買って、自転車で、その公園に
行って、芝生に寝転んでいるのが、最高の休日の過ごし方だった。

なにしろ、当時の休日は日曜日だけ。
今のような週休二日制は夢のまた夢。ちなみに、当時ソニーから発売さ
れたのが、世界最先端の機器であるウォークマンであり、ぼくらはそれで
ポップスを聞きながら、時代の最先端の気分になっていた。まだ、パソコン
も、携帯電話もコンビニもなかった頃である。そして、最近また小金井市に
行ってみると、さすがに、公衆浴場はなくなっていたが、その頃の小さな
中華料理店も、酒屋もあり、あまり変わっていないことに驚いた。
(2016年2月)

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