石の2 東国一の美女・駒姫の悲劇


駒姫1 仙台市と山形市との間には、蔵王山系が聳えているが、笹谷トンネルを
車で抜ければ1時間くらいで行けるので意外と近く、よくドライブする。
特に桜の頃、山形市内から見える真っ白い月山は、九州人であるボクに
とっては夢のような光景である。その山形市で桜の名所といえば、馬見ヶ
崎河畔の並木と、お濠と石垣に囲まれた「霞城(かじょう)公園」である。
ここはかつて、最上氏の居城だった。

ぼくは仙台に来るまで、東北の諸藩については疎く、伊達政宗についても、
福岡に居た頃に、大河ドラマの「独眼竜政宗」を観て、初めてその人物像を
知ったくらいだったので、最上氏というのも、その中で初めて知った。そして、
霞城公園の入り口に「最上義光歴史館」というのがあって、それでやっと
東北で伊達政宗と並ぶ、戦国の雄・最上義光の存在を知った。

この伊達氏と最上氏は、東北を切り取るライバル関係でありながら、実は
婚姻関係でもあった。なにしろ、最上義光の妹が伊達政宗の母なのである。
つまり、伊達政宗にとって最上義光は伯父にあたる。それでも最上氏が
伊達家の家督を継いだ伊達政宗を警戒しなければならなかったのは、
政宗のあまりにも盛んな領土拡張政策のためだった。
しかし、信長の死後、覇権を握った秀吉が小田原の北条氏を攻めた時、
その権勢の前に、両者とも、さすがに秀吉の配下に下るしかなかった。
なにしろ、徳川も上杉も既に、秀吉の配下になっていたからである。

そして、秀吉は北条を滅ぼして天下統一を成し遂げたのだが、その直後、
最上義光にとっては、思いもよらない事態が発生する。豊臣秀次が義光に、
次女の駒姫を側室に欲しいと申し入れてきたのである。秀次といえば、
ねねとの間に子供が出来なかった秀吉が、後継ぎとして定めた甥である。
しかし、あまり評判は良くない。駒姫を寵愛していた義光は丁重に断った。
ところが秀次も執拗だった。義光は何度も断ったが、相手が相手である。
駒姫2 とうとう、15歳になったらと承諾した。そして、東国一の美女と形容された
駒姫はついに京都の最上屋敷に入り、秀次と正式に対面する準備に入る。
ところが、かんじんの秀次は、その一か月後に秀吉の命令によって、
切腹させられてしまうのである。

その原因は、秀吉と茶々との間に、実子の秀頼が生まれたということが
大きいが、その他にも、秀次が大陸中国への戦いに大将として行くべき
ところを無視したり、西国の毛利氏と勝手に経済関係を結んだりと、ことご
とくが秀吉の勘気をこうむっていたのである。とにかく、晩年の秀吉は情緒が
酷く、千利休も切腹させていたし、そういう傾向が止まらなかった。秀次を
切腹させると決めた以上、その身内の者も子供から側室まで全てを処刑せよ
と命じた。その中に駒姫も含まれていた。

しかし、駒姫は一か月前に京都に来たばかりであり、まだ秀次と面会した
こともなかった。多くの家臣や、淀殿までも助命嘆願をしたが、秀吉は一切
聞き入れなかった。実際の関係者であった多くの側室や女中達と共に、
三条河原に引き出されて首をはねられてしまったのである。悲運としか
言いようがない。伊達政宗にとっても、駒姫は従妹になる。その時の、
駒姫の辞世の句がある。「罪をきる弥陀の剣にかかる身の、なにか五つの
障りあるべき」だった。大名の娘として、運命は受け入れるが、悪い事は何も
していないので、極楽には行けるのでしょうか?という意味である。そして、
その最後に、「伊万 15歳」と付け加えている。
伊万とは駒姫の名前である。1980年代のアイドル松本伊代のヒット曲
「センチメンタルジャーニー」に、「伊代はまだ16才だから」という歌詞が
あるが、伊万も15歳だったのである。とにかく、かわいい盛りの東国一
の美少女だったのである。その首が斬られてしまった。

それを聞いた最上義光が激怒し、嘆き悲しんだのは言うまでもない。
義光の妻の大崎夫人も涙にくれて暮らし、直後に亡くなった。自殺したとも
言われている。秀吉が死に、徳川家康が関ヶ原で立ち上がると、すぐに、
最上義光は徳川方についた。当たり前である。その時に、東北では西軍に
駒姫3 ついた上杉の軍勢が、家老・直江兼次を筆頭にして、山形に進軍してきたが、
最上義光はそれを「長谷堂城の戦い」で破っている。これは山形市民の誇り
となっている。その後、徳川幕府が成立すると、最上義光は最上藩57万石
を許され大大名となる。隣の仙台・伊達藩が62万石だから、堂々たる大藩
となった。最上義光もかわいい駒姫の仇を討った気持ちになったのでは
なかろうか。

ただ、その最上義光が亡くなった後の最上氏は残念だった。その長男が急逝
した後は、継承者を巡って家中が分裂して、結局は改易させれてしまうのである。
仙台の伊達藩でもお家騒動は起こって歌舞伎にまでなったが、そこが外交力の
違いである。伊達政宗は江戸幕府の将軍の三代までの相談役になっており、
幕末まで存続した。その一方、山形は最上氏が改易された後、その家臣は
散り散りになり、他藩の家来になったりした。例えば、水戸黄門で有名な水戸家
の、国家老の山野辺兵庫というのは、義光の孫である。山形の領地は、その後、
徳川家の重臣の領地として回されることになる。多くは松平家である。つまり、
山形市は徳川家臣のご褒美の土地になったのである。しかし、山形市民は
最上義光を誇りに思っていた。現在の山形の夏祭りとして有名な「花笠祭り」は、
元々、「義光祭り」だったのである。ちなみに義光は「よしあき」と発音する。
(2016年6月)


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