石の2 3つの子守唄


子守唄1 ある時、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」を読んでいたら、
五木の子守唄の2番目の歌詞にある「おどまかんじんかんじん」
の「かんじん」というのは、仏教用語の「勧進」であり、私度僧が
全国津々浦々を回って、家の前でお経を唱えて寄付を募る
行為のことだと書いてある。その貧しい身なりと行為が、勧進
坊主とも、乞食坊主とも言われ、「おどま勧進勧進」というのは、
つまりは「自分達は乞食のように貧しい」という意味なのであって、
「あん人たちゃ、よか衆。よかしゅ、よか帯、よかきもん(着物)」
と続くのは、「それに比べて、あの人達は金持ちでいいなあ」
と嘆く歌詞なのである。ぼくは意味を考えることなく歌っていたし、
妻は妻で、「我慢することがかんじん」という意味に解釈して
いたので、え、そうなの?と驚いていた。

さらにドライブ中に、二人で記憶を頼りに、「おどま…」「おどみゃ
…」などと歌っていると、いつの間にか、五木の子守唄が、島原の
子守唄になっていたり、竹田の子守唄はどんなんだっけ?という
ことになり、ぼくらは全く混乱してしまった。アハハである。
そこで、家に帰って、調べ直してみると、3つの有名な子守唄は、
その内容も成り立ちも、全く違うのである。

まず、「おどま盆ぎり、盆切り~♪」で始まる五木の子守唄で
あるが、五木村というのは、熊本の八代地方の山奥にあり、
そのまた山奥に五家荘がある。昔そこに、平家の落人が逃れて
来て隠れ住み、それを追討に来た鎌倉武士が手前の五木村に
監視するように住み、三十三人衆と言われる地主になった。
ぼくらは福岡時代、「平家の落人の里・五家荘」というバスツア
ーに行ったことがあるが、本当に山奥で、五木村までは普通の
バスで行けるが、その先は道幅が狭いので、マイクロバスに
乗り換えなければならなかった。標高も千mを越え、急峻な山襞
に粟や稗を細々と耕して暮らす土地であり、落人の子孫は、
娘を五木村に子守奉公にやるしかなかったのだ。

そして、島原の子守唄は「おどみゃ島原の、おどみゃ島原の~♪」
で始まるが、これはその先の歌詞をじっくり読むとわかるが、実は
島原や天草からアジアへ娼婦として売られた「からゆきさん」の
物語なのである。明治時代、福岡県の三池炭鉱で掘られた石炭は
アジアに輸出されていたが、その輸出港として、島原半島の口之津
が盛んになった。その同じ船に、島原の貧農の娘達が荷物のように
して乗せられてアジアまで運ばれ、娼婦として売られたのである。
「鬼の池ん久助どんが連れん来らるんばい」の久助どんは、
その仲介をする、有名な女衒(ぜげん)だった。
売られた娘達は異国の地で、悲惨な毎日を送るのだが、中には
お金を得て日本に戻り、親に家を建ててあげる者もいた。彼女ら
は蔑まれる存在には違いなかったが、子守奉公をしている娘達の
中には、それを羨ましいと思う微妙な気持ちもあったという。その
からゆきさんを描いた映画が「サンダカン八番娼館」という名作で
ある。晩年の田中絹代が、戻りからゆきさんである老婆を演じて、
ベルリン国際映画祭の最優秀女優賞を受賞した。

子守唄2 そして「竹田の子守唄」だが、こちらは、京都郊外の竹田地区に
あった被差別部落の娘達の話なのである。
平安時代から、穢多(エタ)、非人と呼ばれる農民以下の下級民が
存在したが、その多くは獣を捕って、捌く人々である。現在でも
我々は、牛や豚を屠殺する現場を知らないが、実際にそれに
従事する職業の人がいるのである。今、そういう人を差別する
ことはないが、京都には公家が多かったために、穢れ(けがれ)
をやたらと言い立てることが多く、部落差別の風習が遅くまで
残ったと言われている。なにしろ、鎌倉幕府成立の前までは、
武士でさえ、穢れの対象だったのである。部落という名称は、
東北では普通の村のことだが、西日本では今でもタブーである。

3つの子守唄はどれも、明治時代に成立したものであり、
子守り奉公に出された娘達が、自分達の貧しさを嘆いた唄だが、
娘といっても、勘違いしてはならないのは、彼女らの年齢は実は、
今の小学生くらいなのである。つまり、ほんの少女である。だから、
あんなに素直にお金持ちはいいなと羨ましがっているのだ。
自分自身が幼いから、子守奉公しかできないし、お盆になれば
実家に帰してもらえるけれども、たいしたお金にはならない。
もう少し大きくなれば、女工になったり、たとえ、からゆきさんに
なっても両親のために役に立つことも出来るという意味もある。
母が子供に歌う優しい子守り歌と、「子守唄」とは全く違うのだ。
(2015年11月)

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