石の2 福島県・郡山市で、とんこつラーメンの町起こし


郡山1 福島県の郡山(こおりやま)市が、とんこつラーメンで
町おこしをやっていると聞いたので、その興味もあり、
二人で、JRを使って、初めて観光に行ってみた。

福島県というのは、東北の一番南にあって、県の面積が、
全国的に、岩手県に次いで、二番目に大きい。
猪苗代湖という、琵琶湖に次いで2番目に大きい湖もある。
県庁所在地は福島市だが、いちばん有名な市は、
なんといっても、白虎隊で有名な、会津若松市だろう。
しかし、市の規模としては、今は、郡山市や
海沿いのいわき市の方が人口が大きい。

朝の10時半頃、郡山駅に着いて、駅外のデッキで、
一休みしていたら、女子高校生二人組に
「郡山についてのアンケート、お願いします」
とお願いされた。市役所のアルバイトということで、
郡山2 ミニスカートの制服姿に、腕章を巻いていて、
丸々したかわいい娘達だった。

でも、ぼくら今、初めての郡山に着いたばかりなので、
逆にぼくが、彼女らに、いろいろ質問してしまった。
「郡山の有名なおいしいものって、何?」
「鯉かなあ」…内陸なので、鯉の佃煮だろうか?
「郡山で誇れるもの、有名なものって何?」
二人とも、首をひねって考えてたけど、結局は、
「何にもないですけど…」
けっこう、まじめに一生懸命考えてくれてたけど…。
「人口はどれくらい?」
「33万人です」
こういうのは、きちんと学んでいるらしい。
「福島県って、一番大きな都市は?」
「いわき市です」

「~ばい」って、言葉使う?」
「うんうん、使う使う!」と二人とも大きくうなづく。
そこで、ぼくは九州人で、奥さんは仙台人なんだけど、
と前置きして、(彼女達は、その出会いの方に興味を
郡山3 持ったみたいだったけど) それは明治時代に、こちらの
安積(あさか)原野を開拓するために、福岡の久留米から
藩士家族が移住してきたために、広がった言葉であり、
実は、九州弁なんだよと教えてやると、
「へええ!」と、のけぞって驚いていた。

実は、郡山が、とんこつラーメンで町おこしをやろうと
なったきっかけは、そういうい久留米との繋がりなのであり、
久留米といえば、九州のとんこつラーメンの発祥地である。
郡山市には、久留米町という町名もある。なぜか?

そもそもは、明治政府の武士救済のための政策だった。
明治維新によって、武士階級が失職して、全国的に不満が
高まり、各地で武士の反乱があいついでいた。
それを緩和するために、明治政府は北海道をはじめ、
未開の原野を開拓する事業を創り出した。そのひとつが、
福島県の安積(あさか)原野の開拓だった。猪苗代湖から
水路を引いて、田園を生みだすという仕事だった。
その政府の募集に応じたひとつが、九州の久留米藩だった。

数十家族が横浜まで船で来て、横浜~新橋は、蒸気機関車に
乗り、霞ヶ浦は船で渡り、水戸から先は歩いたという。
郡山4 ちょうど、イザベラ・バードが東北探検をした同じ年である。

その開拓記念館だという「開成館」に行ってみた。
緑に囲まれて、開拓民達の住居跡を保存してある。
ただ、そこで気付いたのは、郡山原野の開拓を始めたのは
あくまで、会津や二本松の東北人の有志であって、
その熱意に感心した明治政府が公共事業として許可し、
それならばと、全国的に公募して、それでやってきたのが、
久留米や高知の人々であるということだった。

ちなみに、なんで九州や四国などから働き手がやってきたか
というと、当時は、家の土地も財産も、全て長男が受け継ぐことに
なっていたからだ。次男や三男には何の分与もないのである。
それは江戸時代からの伝統なのだが、次男や三男に生まれると、
長男の家来になるしかないのである。
そのために、能力のある次男や三男は独立して、新天地を
目指した。新政府としては、まず東北や北海道の開拓地を
推奨したし、後には朝鮮や満州への移住を薦めたのである。

とにかく、この地に移住して働いた久留米人たちは、中心街に
久留米町という名称を残すくらいになり、九州弁までも残した。
ぼくらは、市内に、とんこつラーメンのノボリでもあるのか
郡山5 と思ったが、町の中に、とんこつラーメンの雰囲気は
ほとんどなかった。やはり、醤油ラーメンが中心である。
なにしろ、同じ福島県内には、喜多方市という
全国的な有名な、醤油ラーメンのメッカがあるのだから…。

仙台でも、一時、とんこつラーメンのブームはあったが、
単なる変わりラーメンとしての位置でしかなかった。
スーパーの売り場でも、とんこつの生麺ラーメンは現れては、
すぐに消える。どうも、東北とんこつラーメンの前途は厳しい
ようである。

それにしても、郡山市内を歩いて、公園があると、
そこには、必ず、池や噴水や人工の滝などの、
水のモニュメントがあることに気付く。
それは、郡山市が明治時代に、苦労して、
猪苗代湖から水路を引くことにより、開拓が進み、
急激に発展した都市だからであり、
水は本当にありがたい、ということを物語っている。
気温が30℃くらいの夏日の日に行ったので、なおさら、
水のモニュメントがさわやかだった。
(2005年夏)


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