石の2 空気神社


空気2 山形県・朝日町に、「空気神社」というのがある。
清浄な空気を御神体にしているという、珍しい神社である。
どんな形態になっているのか、見に行ってみることにした。
山形県には、朝日町と、朝日村という別々の自治体があって、
朝日村は月山の麓にあるが、朝日町というのは朝日連峰の麓にある。
山に囲まれているので、朝日が素晴らしいのだろう。

新緑の頃の山形の田舎はどこに行っても素晴らしくて、
いつもため息が出る。九州の照葉樹林の風景と違って、
四季の変化が大きく、春の芽吹きが劇的でめくるめく。
その美しさに、九州人のぼくはギャーギャー騒ぐが、
東北の人は、慣れているらしく常に冷静である。

春だと、山の峰が白く輝いている。
山が白い、というのも九州人にとってはギャーギャー騒ぐ要素である。
信州や北陸や、東北の人々にとっては珍しくもないのだろうが、
山が白いというのは、ただそれだけで、九州人にとっては、
大騒ぎする要素である。

その朝日連峰の麓の山里の近くまで来ると、
りんご温泉」というのがあった。湯船にリンゴを浮かべていて、
りんごラーメンという奇妙な特産品も売っている。
ぼくには、リンゴとラーメンが味としてどう結びつくのか
どうしても想像がつかなかった。
そこを過ぎて、川を渡って、山道を車で登るとキャンプ場に着く。
「家族旅行村・ASAHI自然観」という名称である。
その駐車場に車を止めて見渡すと、傍らに小さく
空気神社へ至る指標の案内板が立っている。
鳥居があるわけでもなく、ささやかな散歩道の入り口である。
そこを5分ほど歩くと、木立ちに囲まれた広場に出た。
そこにあるのは、神社でも祠でもなく、
空気1 水平に据えられた5m四方のステンレスの鏡である。
それが、周囲の木立と空を映している。
それだけである。
それが空気神社の本体であった。

静寂の中、ぼくは感動して眺めていた。
その鏡が写しているのは、まさに緑の中の空気である。
なるほどなと思う。感心しきりだった。
その地下には空洞があって、12個の大きな甕が置かれている。
6月5日の祭りの時だけ、公開されて、拍手を打つと
大きく反響するらしい。これも取り込まれた空気である。
誰が発想したのかは知らないが、とてもいい。

元々、日本の神社というのは、自然を祭っている。
祭神には、古事記などの神様がとりつくろわれてはいるが、
神殿の奥は空っぽということが多い。
社が出来る以前は、神が降りるというだけの場所で、
ただの岩場という例も多い。
ステンレスの鏡というのは、少し近代的だが、
心は、日本伝統古来の、まっとうな自然崇拝である。
思想や人格の無いところに神を見るのである。
教えすらない

昔、西行法師が伊勢神宮に立ち寄った時、
「何ごとの、おわしますかは知らねども、
  かたじけなさに、涙ながるる」
という歌を残したが、これが日本人一般にとっての
基本的な宗教観だと思う。
欧米は一神教であるが、日本は多神教である。
空気3 日本には神様が八百万(やおよろず)もいるというと、
欧米人はオーマイガッ!と叫んで卒倒するらしいが、さらに、
一柱、二柱と、神様を数える単位もあるぞと教えると、
再び、泡を吹いて卒倒するらしい。
いくらでも勝手に卒倒してほしい。

その一神教の人々は、多神教を野蛮とバカにしながら、
神の愛を唱えて、戦争と迫害を繰り返してきたのだから、
まったく矛盾に満ちている。
自然崇拝ならば、宗教対立など起こらないんだよと、
白人に教えてあげたいもんである。
聞く耳は持たないだろうが。
ちなみに、多神教のままで先進国になったのは、
日本だけである。


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