石の2 京都での思い出


京都1 ぼくの父は長崎人、母は佐賀人だが、敗戦で父が軍隊から帰って
きて、母と結婚し、「京都魚市」に就職したので、ぼくは京都の吉田で
生まれた。京都大学がすぐ近くにあり、当時の大学生というのはまだ、
黒い学生服に学帽を被っていた時代である。彼らが友人同士でも
敬語を使っているのを見て、母はさかんに感心していて、さすがに
最高学府だと思い、ぼくを連れて京都大学正門の前を通る度に、
「あなたも将来はここに行くのよ」と暗示をかけていた。
残念ながら、そううまくはいかなかったが、ただ、近所の吉田神社の
祭礼で、行列の、お稚児さんに当時のぼくが選ばれて
参加したことだけを、かろうじて自慢している。

その後、父が長崎出張所長になったので、長崎に引っ越した。
そして、ぼくはすぐに幼稚園に入るのだが、思わぬことが起こった。
ぼくにはまだ京都言葉が残っていたのである。つまり、自分のことを
「わいは…」と言ってしまうのである。ところが、長崎では「わい」と
いうのは、相手のことを指すので、自分のことは「オイは…」と
言わなければならない。そのために会話が混乱してしまって、
「こいつは何ば言いよっとか!」と殴られたりした。しかし、そこは
子供である。すぐに長崎弁にも馴染み、立派な長崎人になって
今日に至ったのである。

その後、ぼくは長崎で高校を卒業するにあたって、美大を志望した。
絵を描くのが好きだったし、漠然とマンガ家か小説家になれたらいいな
と思っていた。そこで、九州に近い京都市立美術大学(今の京都芸大)
を受験したのである。京都の母の友人宅に滞在して、まず学力試験を
受け、これに合格したので、次が実技試験である。ぼくは絵がうまけりゃ
いいのだろうと考えていたが、これが間違いだった。
実技試験は二つあり、最初は鉛筆デッサンで、自分の片手を描けという
ものだった。これはすらすら描いた。ところが2問目は、画用紙とフェルト
京都2 ペンを与えられて「家の概念を描け」というのだ。なぬ?何だこれは?と
焦った。意味がわからなかった。何を描けばいいのだ?頭が真っ白に
なった。わからぬままに白紙で出した。当然、不合格である。

ずっと後になって知ったのだが、美大受験において「家の概念を描け」
というのは、今でもわりとポピュラーな設問なのだという。
美大を受験するからには、せめて美術部に入り、傾向と対策くらいは
練っておかなければならないのである。そして、いざ受験会場で、
「家の概念を描け」と言われれば、はい、そうですかと、ちょっと考えた後、
何かしらをスラスラと描けるくらいの発想力が必要なのである。
ぼくは美大をあきらめることにした。

その翌年には、ぼくは学生運動の影響もあり、文学部に志望を変えて、
東京の私大に入学した。小説家志向もあったからだ。ところが、そのうち
気付いたのは、自分に物語を作るという才能が欠落しているということ
である。今も感心するのは、日本にはいろんなマンガ作家があふれて
いて、そのストーリーがアニメになり、海外でも大人気だが、よくあんな
物語をゼロから発想できるなあと感心する。つまり、「家の概念を描け」と
いきなり言われて、即応できる発想力というのが、マンガ家にも小説家
にも必要なのである。ぼくは、あきらめて会社員になった。

それにしても、京都で思い出すことがある。
京都3 京都での受験の時には、母の友人の家に泊まったのだが、そこに
ぼくより数年上の社会人のお姉さんがいて、年下の男の子に興味を
持って、河原町などにもデートで連れていってくれたものだが、ある時
家で一緒にテレビを観ていて、お笑い番組で笑福亭仁鶴が出てくると、
彼女がおもしろいよねえと言うのだが、ぼくが全く知らないというと、
ウソ!と激しく驚くのだった。とにかく、ものすごく驚いていた。

実は、長崎を始め九州では、東京の番組が主流であり、関西の番組は、
ほとんど放映されていない。だから、関西では有名な笑福亭仁鶴という
芸人を九州では誰も知らないのである。一方で、関西の人は、自分達が
観ているテレビは、日本中で放映されていると思い込んでいたのである。
京都のお姉さんは、そのことを知って、まるで天地がひっくり返ったように
驚いていた。ぼくが、比較文化のカルチャーショックに興味を持ったのも、
それがきっかけだった。あれから40年。テレビで「秘密のケンミンショー」
という番組が始まった時、ぼくはこれはおもしろいぞ、ヒットするぞと思って
いたら、やはり、その通りになった。

(2015年11月)

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