石の2 40年ぶりの京都

京都旅2 夫婦二人、4泊5日で京都に行って来た。妻の優子は高校時代に仙台
から修学旅行で来たのを初めとして、大人になっても来ているし、僕は
元々、京都生まれである。4歳まで暮らしていたし、若い頃も長崎から
何度か来ている。それでも二人共、今回は40年ぶりであった。

まず驚いたのは新しい京都駅である。1997年にリニューアルオープン
したというが、構内の空間が広く、天井が高い。最近はどこもそうらしい。
学生運動やフーテンが全盛だった1970年の頃は、駅前に芝生広場が
あって、そこで寝転がって一晩を過ごすヒッチハイクの若者が多かった。
当時はチンチン電車があったが、地下鉄が出来ると同時になくなった。
今は京都観光をするには、バスの1日乗車券600円が便利である。
市内はほぼ230円だが、3回乗れば元が取れる。

ぼくらが宿泊したのは四条河原町の「ユニゾイン」である。
四条河原町のど真ん中にあり、なんと、坂本龍馬が暗殺された近江屋の
跡まで歩いて1分である。かっぱ寿司の隣に、碑と写真がある。こんな
場所にあるとは知らなかった。そして、当時は道路を挟んで土佐藩邸が
真ん前にあったというのだ。土佐藩としては、龍馬の身を案じて藩邸に
泊まれと助言したらしいが、自由行動したい龍馬は断っていたらしい。
その場所が今では、京都で一番の繁華街である。

四条河原町を中心にぼくらは、新京極通り、寺町通り、それと直角
に交わる錦市場などを繰り返し歩き回ったが、とにかく、どこを歩いても
外国人だらけである。欧米はもちろん、台湾、中国、韓国、アジア系と
あらゆる人々が入り混じって、あらゆる言語が飛び交っている。
清水寺に行くと、その途中から浴衣や着物姿の女性だらけになるが、
そのほとんどがアジア系である。八坂神社や清水寺付近には、レンタル
着物の店が多く、一式揃えれば小物も入れて、一万円近くなるだろうが、
京都旅3 やはり日本の着物は、とてもインスタ映えするのだろう。

そして、ぼくが京都に来て一番に行きたかった場所は、鴨川沿いである。
特に四条大橋から眺める鴨川の景色である。その河畔には散歩道が
あり、カップルが間を置いて座って語り合っている。すく横には先斗町
(ぽんとちょう)の料理店が張り出している川床があり、夕方から営業する
のでいかにも涼しげである。せっかく京都に来たのなら、そういう料理店に
入ってみたいなと思うのだが、どこも鍋とコース料理のメニューであり、
一人当たり6千円以上の値段設定の店ばかりである。ぼくらはもう胃が
小さくなっているのであきらめて、新京極通りを歩いて、おいしい一品料理
で飲める店を毎晩探して、はしごして、陽が暮れるまでを楽しんだ。

それにしても京都である。やはり京都である。
寺は東寺や南禅寺などに行ったが、伽藍の大きさが違う。地方には
こんなに大きな僧堂はない。さすがに平安京である。東寺には初めて
行ったのだが、その五重塔の大きさにも圧倒された。
さらに京都と言えば、花街である祇園の町並みが魅力だが、なるほど
これが本物かと感心する。日本各地には小京都と呼ばれる、似た町並が
あるわけだが、ここが正真正銘のホンマモンなのである。そこを歩いて
いると、たぶん雑誌の写真を撮っているのだろう風の、着物を着た本物の
日本人女性のモデルと、カメラマンなどがいたりする。そういう撮影風景が
なんの不思議もなく、珍しくも思えないというのが本家本物の祇園である。
時間によっては、本物の舞妓さんなども歩いているのだろう。こういう所
の料亭は一見さんお断りなどとも聞いているし、限られた人々しか入れ
ないのだろうと思いながら歩いていたが、ふとあることを思い出した。

京都旅4 実はぼくは幼稚園くらいの子供の頃は、何回も祇園に泊まっていたのだ。
というのは、戦争から帰ってきた長崎人の父が親戚のツテで、京都魚市の
社員になったからだ。それでぼくは京都生まれなのだが、幼稚園の頃に、
父が京都魚市の長崎出張所の責任者として赴任したので、長崎に来た。
その京都魚市では毎年7月に、各地の責任者を本社に集めて会議を行うの
である。その度に父は京都に泊まるのだが、京都魚市は社員の宿泊所と
して、祇園のど真ん中に一軒まるまる旅館を借り切っていたのである。

その時、父はぼくをよく京都に連れていった。時には家族総出で行った。
だから、ぼくは祇園の旅館に何度も泊まっていたのである。真ん中に庭が
あり、廊下がそれを取り囲んでいる二階建ての大きな旅館だった。しかも、
祇園祭りの時には、キャデラックのオープンカーのハイヤー(今ではそんな
ものはあり得ない)を頼んで、親子で乗り込んで、人でごった返す通りを
進んだのである。今思えば、なんと贅沢な経験だったんだろうと思う。信じ
られないくらいである。そして、その当時は長崎と京都を走る「つばめ」は、
まだ蒸気機関車が引っ張っていたのである。蒸気機関車の煙の匂いは
今でもはっきりと覚えている。
(2019年6月)

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