石の2 旧石器時代発掘のドラマ


旧石器1 藤村新一という人物を覚えているだろうか?
アマチュア考古学者ながら、NPO法人・東北旧石器文化研究所
の副理事として、前中期旧石器時代の石器を次から次に発掘し、
「ゴッドハンド(神の手)」とまで呼ばれた人物だ。ところが、
2000年11月の毎日新聞のスクープにより、その全てが
捏造であると判明、日本の考古学会は大騒ぎになった。
ぼくは「ふーん、そんなひどい奴がいたのか」と思う程度で、
あとは、鳴子にゆく国道沿いにあった「上高森遺跡」の看板が
真っ白に塗りつぶされたのを印象的に見ただけだった。

そんなことは忘れていて最近、松本清張の「石の骨」という
小説を読んだ。昭和前半のアマチュア考古学者が、
旧石器時代の石器を発見したにも関わらす、学歴がない
ということで、学会に認められなかったという悲哀を
描いた短編だ。清張さん御自身が小学校卒という経歴で、
学歴コンプレックスを持ち、それをバネに小説家として
大成した人なので、彼の小説には、この手の話が多い。

ただ、旧石器時代の石器というのは、話が具体的である。
そこのところの史実はどうなんだろうかと、ネットで検索してみた。
するとあらら、この小説は実在した二人のアマチュア考古学者
の実話を元に組み立てたストーリーであり、しかも、
旧石器2 仙台の東北大学にまで関係が深く、さらにそれが、
捏造事件の藤村新一にまで繋がってしまうのである。
ということで、以下に紹介する。

歴史の区分として、弥生時代、縄文時代などがある。
縄文時代は今から、1万3千年前あたりから始まる。
その以前、100万年前までは旧石器時代と呼ばれている。
しかし、日本列島には、旧石器時代には人間はいなかった
というのが考古学会のいわば常識であった。

ところが昭和6年、旧石器時代の地層から石器と人骨を
発見したと言う人物が現れた。直良(なおら)信夫といい、
素人の考古学研究者である。貧乏ゆえに尋常小学校を
中退したが、いろんな仕事をしながら早稲田中学校を
通信講座で卒業、岩倉高校も卒業した。
しかし、学会とは無縁だったので、バカにされ無視された。
人骨を東大の教授に送ったものの、送り返されて、
それも1945年の東京大空襲で焼失してしまった。
ただ、戦後になって、その人骨の石膏模型を研究した
東大の長谷部教授が、これは旧石器時代の人間である
と断言し、明石原人と名付けて話題になった。ところが、
ものすごい反論を浴び、しかも最近の科学的な分析の結果、
旧石器3 ずっと新しい時代の人骨だとわかってがっかりするのだが、
当時の人々に、旧石器時代に日本にも人類がいたかも
しれない…というインパクトを与えたのだった。

そして、昭和24年。今度は間違いのない旧石器時代の
石器が発見された。群馬県の関東ローム層の断面からである。
発見者は、これも素人の研究者である相沢忠洋であった。
尋常小学校の夜学が最終学歴であり、納豆の行商をしながら、
独学で考古学の研究をしていた人物である。
彼はいろんな学者に手紙を書いたが、その中で、快く自分の
話を聞いてくれ指導をしてくれる人物を見つけ出した。
当時、明治大学院生だった芹沢長介である。
相沢は、彼に会うために、たびたび、桐生から東京まで、
120kmの道のりを自転車で日帰りで往復したという。

そして、相沢から石器を見せられた芹沢は驚き、
上司である、明治大学教授・杉原壮介にすぐに報告した。
杉原は大学をあげて大々的な調査を行い、その結果、
旧石器時代の日本人の痕跡が初めて認められることとなった。
画期的なことである。しかし、その功績は、全て杉原教授の
ものとされ、学歴のない相沢の功績は全て無視され、
報告書には名前すら載らなかった。いわば功績の横捕りである。
そういう杉原教授のやり方に怒った芹沢は明治大学を辞め、
仙台の東北大学に移った。

旧石器4 その後は、直良や、相沢ら二人のアマチュア考古学者の
熱心な研究に加え、東北大学教授となった芹沢を中心とする
発掘によって、批判をはね返しながら、旧石器時代の日本人の
存在は後期2万年前までは確実となったのである。
素晴らしい成果だった。
しかも、その勢いは止まらず、発掘ごとに10万年ほども更新され、
遂に宮城県築館町の「上高森遺跡」は60万年前と認定された。
前期旧石器時代そのものである。芹沢教授は
「100万年前の石器を早く出せ」というのが口癖になった。
そして、その下で、アマチュア考古学者ながら大活躍したのが、
冒頭に紹介した、藤村新一だったのである。
ところが、その発掘の全てが捏造だとわかった。
これにより、30年間に渡って、芹沢教授グループによって
築き上げられてきた、旧石器時代前期に関する発掘、研究の全てが
吹っ飛んだ。その影響は大きく、中学、高校の教科書も
全て書き換えられることになったのだ。

まったく皮肉な話である。
昭和初期から、アマチュアの考古学研究者の発見は
大学の学者、専門家からは、学歴がないというだけで無視され、
あるいは利用されるだけで捨てられてきたのを、芹沢長介という
学者が上司に反抗してまでも、救い上げ育て上げ、ついには、
日本考古学会の主流にまでし、彼自身も、日本における
縄文学、旧石器学における第一人者になったのである。
旧石器5 ところが、その後の成果を全部崩したのも、身内として活躍していた
アマチュア考古学者だったのだ。松本清張も予想しなかった
ドンデン返しである。清張はその8年前に没している。

上高森遺跡のあった宮城県・築館町では、日本最古の遺跡を
町おこしの起爆剤にしようと、「原人が見上げた空のある町」
というキャッチフレーズの元、「原人ラーメン」「原人パン」
「原人せんべい」「清酒・高森原人」を作り、「原人仮装コンテスト」
「原人マラソン」をやり、「原人音頭」まで作って、踊っていたのだが、
それも全部チャラになったのである。

●芹沢長介教授の父は、人間国宝で染色家の芹沢銈介であり、
東北福祉大学には、その美術工芸館があり、長介自身も
その館長を務め、東北福祉大学の教授でもあった。
東北大学名誉教授として、2006年、86才で死去。
●直良信夫は、その後も研究を続け、様々な研究の工夫が
認められ、早稲田大学の講師から、教授にまでなった。
1985年、83才で死去。
●相沢忠洋は、最初は、詐欺師とか行商人風情がなどと
中傷されたものの、最期には、日本の旧石器時代の存在を
発見した考古学者として正当な評価を受け、1967年には
吉川英治賞を受賞した。1991年死去、勲五等を授与された。
● 藤村新一、どこかで静かに暮らしているらしいが、
2008年現在、所在は不明である。


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