石の2 お江戸の幕の内弁当


幕の内1 時代考証家・山田順子が書いた「江戸グルメ誕生」という本が
大変おもしろい。その中に幕の内弁当の話が出てくる。
幕の内弁当とはご存じのように歌舞伎の幕間に出てくる弁当の
ことだが、なぜ弁当が必要かというと、江戸歌舞伎は12時間の
長丁場だったからである。

当時は室内ながら照明設備はなく(菜種油や蝋燭が高価だった、
あるいは火事を恐れた幕府が夜間興行を許さなかった)、明かり
取りの窓からの太陽光線だけが頼りだったので、上演時間は自然と、
夜明けから日没までである。その12時間の間に、休憩時間を
挟みながら、二つから三つの演目をやるわけである。

客はまだ暗い夜明け前から出向いてきて、まずは芝居小屋の周辺
に立ち並ぶ芝居茶屋に入る。そこは、観客席の手配から、観劇中に
飲む茶や酒やその肴、弁当や菓子の手配、さらには休憩所となる
など、歌舞伎見物に必要なサービスを全てやってくれる施設というか
有料のサービスセンターなのである。

そして、長丁場なので途中お腹が空く。朝昼夕と3食とる客もいたが、
メインは昼食で、お金持ちは茶店に戻って膳で食べたりしたが、
普通の客の場合は観客席に茶店から弁当が届けられる。それが
幕の内弁当である。そして、この本で興味深かったのは、当時の
幕の内弁当の中味を紹介している点である。それによると、
幕の内2 重箱の中に、軽く炙った握り飯、玉子焼きと蒲鉾、こんにゃく、
焼き豆腐、かんぴょうを煮たもの
、というのが定番だったという。
うーむ!ぼくはこれに感激してしまった。これが幕の内弁当の元祖
である。握り飯といっても、当時は一日に米を5合食べるのが普通
だったので、かなり大きな焼きおにぎりだったと想像できる。
(米を五合食べるというのは、江戸町民に限っての話である)

玉子焼きと蒲鉾は、江戸後期になって出回った食べ物であり、
そこですぐ思い出すのが落語の「長屋の花見」である。貧乏長屋の
大家さんが長屋の住民に、みんなで花見に行こうじゃないかと言い、
みんなは大家が酒も肴もあつらえてくれたのだと思ってついてゆくと、
玉子焼きに似せたタクワンであり、蒲鉾はそれに似せて切った大根
であり、とっくりの中の酒も水だったという笑い話だ。
その頃の蒲鉾は一本だいたい4000円くらいであり、玉子焼きも
酒も本物を揃えると、長屋の皆さんの分で何万円もするので、
幕の内3 大家さんとしても、そうそうは本物が揃えなかったのであろう。

そして、コンニャク、焼き豆腐、かんぴょうというオカズは、普通、
醤油と味醂か砂糖で、今のスキヤキ風に味付けしてあったようで、
焼きおにぎりに合う味だったと思う。
そういうことを考えると、歌舞伎を見物に行くということは、それなりに
たいそうなお金を使う娯楽であり、江戸の町人や商人としては、
最高峰の贅沢だったのだろう。

そして、薄暗い光線の中で演じられる芝居としての歌舞伎は、
今の映画でいうクローズアップの技法として、顔の隈どりや、
拍子木を叩く音と連動した大げさな身降りを考え出したものであり、
歌舞伎のあらゆる伝統は、町民の客に喜んでもらえるように、
次々と工夫して考え出されたものなんである。

そして、昼飯も済んで午後の公演が始まり、しばらくするとまたまた
小腹が空いてくるが、そういう頃合いを見計らって茶店から
客席に届けられたのが「助六寿司」である。
幕の内4 稲荷寿司と、かんぴょうを巻いた海苔巻きのセットである。
なぜ助六と名付けられたかというと、通称「助六」という演目が
江戸歌舞伎の十八番であり、その主人公の助六が大人気で、
いわばスーパースターだったが、その恋人が「揚巻」だったので、
揚げを使った稲荷寿司と、巻き寿司が一緒に入っているという
ことを洒落で、江戸の人が助六と呼んだのである。
これは寿司折りになっており、おみやげとして持って帰れたので
喜ばれたという。
町民の奢多や享楽を喜ばない幕府は、芝居が終わったら早く
帰るようにと薦めたが、どっこい、金に余裕があった大旦那などは
茶屋で蕎麦を食べたり、酒と肴で一杯やったりして余韻を楽しんだ
そうである。
(2011年)


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