石の2 「水城」と、朝鮮半島の話


水城2 北九州の佐賀県から福岡県の海岸沿いは、壱岐、対馬を挟んで、
朝鮮半島に最も近く、古代から交流が頻繁だったので、その交流や
戦役に関する様々な史跡が多い。例えば、佐賀県の「名護屋城」跡は、
秀吉が明に攻め入るための前線基地であるし、博多の浜辺に残って
いる元寇防塁跡は、元の侵略に立ち向かった跡である。しかし、
それよりもっと古い、奈良時代の防塁跡が博多には残っている。
それが「水城(みずき)」である。福岡に立ち寄った折りには、ぜひ
一目でも見て欲しいと思うのだが、観光名所になっているわけでもなく、
地味なので、福岡市民でも、わざわざ見に行く人は少ない。ただ、高速
道路と西鉄線がその水城を直角に横切っているので、車窓からチラとでも
見て欲しい。歴史の生々しさに驚くだろう。

で、その水城とはいったい何なのか?
時は663年。天智天皇のころ、大化の改新の少し前の頃である。
当時の朝鮮半島には、北に高句麗があり、南東に新羅(しらぎ)、
南西に百済(くだら)という三国が勢力を拮抗させていた。

水城1 ただ、大和朝廷が成立した4世紀頃に同じように成立した高句麗は、
やがて南満州をも含む大国になっていて、それに脅威を持った
中国の唐は何度も高句麗を攻撃したが、撃退されていた。
そのうち、新羅が力をつけてきたので、唐は新羅と親交を結び、
高句麗を挟み撃ちにしたのである。さすがの高句麗も滅亡の道を
辿る。それが7世紀の頃である。そして同時に、新羅は百済を攻撃
する。進退極まった百済は日本に援軍を求める。
というのも、朝鮮半島南部と日本の大和政権とはたいへんに仲が良く、
というより、ほとんど親戚同様だったのである。

そこで、日本はすぐに大軍を送って、大和・百済の連合軍で反撃する。
ところが、新羅も中国の唐から援軍を得て、唐・新羅の連合軍で攻撃
してきたため、日本軍は「白水江(はくすきのえ)の戦い」で惨敗する。
結局、日本軍はほうほうのていで帰国し、百済も滅亡してしまう。
朝鮮半島は新羅が統一し、百済の王族や貴族の多くは日本に
亡命したのである。

水城3 本国に逃げ帰った日本軍は、唐・新羅の連合軍が海を越えて
日本まで追撃して来るのではないかという恐怖に怯えた。
もし、向こうが攻めてくるとしたら、博多の浜はどこでも上陸できるし、
無防備である。そこで、朝廷の役所がある大宰府を守るためには、
その手前に何らかの防塁を築かねば、と考えた。
そこで造ったのが水城である。

山と山の狭間に、高さ10m、幅80m、長さ1.2kmの土塁を築き、
その手前に、幅60m、深さ4mの溝まで造り、水を張った。その両側の
山の上には食糧倉庫群も並べて、防備としたのである。
結局、新羅軍は海を渡ってまで攻めてこなかったので、胸をなでおろし
たのだが、なんだかそういう心情が生々しい遺跡である。今は土塁の上に
樹木が生えて、説明されないとわからない土手になっているが、本当の
歴史好きな人が来れば、じーんと感動するはずである。
(2013年7月)

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