石の2 奥州・江差水沢に行ってみた


水沢1 夫婦で遠出のドライブをしたかったので、東北道を岩手県まで走って、
適当に水沢という町で降りてみた。駅は閑散としていて、駅前
商店街もシャッター街であり、人もほとんど歩いていない典型的な
田舎町であった。それでも、どこか見るべき所はあるだろうと、駅の
観光案内所で地図をもらって説明を聞くと、斎藤実記念館というのが
ありますと言われたので車で向かった。斎藤実って誰?と思っていたら、
昭和11年の、2・26事件で殺害された首相だという。

2・26と言えば、青年将校達がクーデターを起こして、
蔵相である高橋是清を殺害したということは知っていたが、首相も
殺害されていたのである。説明を読むと、
東京の斎藤家の屋敷に青年将校達がけたたましく踏み込んで来た時、
まず、奥さんが寝着のまま、
「主人を殺すなら、その前に私を撃ちなさい」と気丈にも立ち塞がったという。
すると青年将校はすぐに彼女を撃ち、奥に踏み込んで斎藤実を
殺害したという。奥さんは肩に銃撃されただけで命は助かったが、
その時の、血糊の付いた浴衣とか、銃撃で割れた鏡台とかが、
展示されている。実に生々しく、こんな田舎の記念館に、
よくこんなものが展示されているもんだと驚いた。
そこの案内の若い女性によると、水沢の3偉人と称されているのが、
この斎藤実と、高野長英と、後藤新平であるという。
後ろの二人のことはぼくも教科書である程度は知っている。
目の前の街道沿いに、その碑がすぐにあるというので、
車を置いて歩いてみた。

水沢2 5分ほど歩くと、高野長英の生家跡の碑があった。
幕末の医者、蘭学者である。
養父が杉田玄白から教えを受けた蘭学者、医者であったということもあり、
新しい学問に並々ならぬ興味を持ち、江戸留学をすると、さらに情熱が高まり、
水沢の実家から家督を継げと言われると、家督を捨ててまで、長崎に行き、
シーボルトの鳴滝塾の門下生になる。
すると、めきめきと才覚を顕してたちまち塾頭になる。
やがて、シーボルトが国禁を犯したために国外退去を命ぜられ、
多くの関係者が捕縛されるが、うまく立ち回って罰に連座されることなく
江戸に戻って多くの学者と交流するようになったが、その頃には、既に
幕末の一級の蘭学者として、多くの洋書を翻訳するようになっていた。
ただ、性格的には、己の才能を鼻にかけるようなところがあり、傲慢
だったともいう。それが災いしたのか、幕政を批判した書が告発され、
西洋嫌いの目付の鳥居燿蔵により、渡辺崋山らと共に牢獄に
入れられてしまう。いわゆる蛮社の獄である。

小伝馬町牢屋敷に入れられた長英であるが、ある時、近所に起こった
火事での緊急処置として、罪人が解き放たれた時に、鎮火しても一人
戻らず逃亡生活に入る。一説では、長英が牢役人を買収して火をつけ
させたとも言われている。長英を匿う知人や学者は多く、西国にまで逃亡
を続け、一時は四国の宇和島伊達藩に匿われ、藩主直々に洋書を翻訳
する仕事を頼まれて学問に打ち込んで過ごしたという。しかし、四国にも
幕府の取り手の圧力が迫ったために、再び江戸に戻って、薬品で人相を
変えてまでして、町医者として潜んでいたが、ついに見つかって追い詰め
られ、最後は大立ち回りの末、自害して果てた。47歳。壮絶な人生だった。
しかし、高野長英のことは、一般的には学者としての功績よりも、その
逃亡生活のことばかりが有名である。ぼくもその人生は、つい最近、
吉村昭の小説で詳しく知ったが、その小説の題名も「長英逃亡」である。

その長英の碑からまた5分程歩くと、今度は左側に「後藤新平の生家跡」
がある。茅葺きの下級武士のこじんまりした家である。
後藤新平は、長英の死後7年後に生まれている。
水沢3 少年の頃からその英才を認められ、次々に引き立てられて東京で医者の
道を歩むが、やがて内務省衛生局に採用されると、むしろ、その行政手腕を
買われるようになる。軍医総監が「後藤という奴は使えるぞ」と保証すると、
陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎は、台湾総督になった時、片腕として
民政局長に抜擢する。すると後藤がまずやったのは、徹底的な現地調査で
あった。その土地の人々にとって、何が必要かということを調べ、その上で、
衛生面や、道路や農業などに関する合理的な施策を行ったのである。
これが、台湾が経済発展する基礎になり、今も日本が台湾人から尊敬される
元になっている。
その手腕を買われて、1906年には初代・南満鉄総裁に抜擢され、そこでも
満鉄調査部を作り、その調査を元に、満州におけるインフラや都市の建設を
行った。ただの荒野に、鉱業を元に、工業都市を作り上げたのである。
その後、国内においても、初代鉄道院総裁、そして内務、外務大臣を務め、
関東大震災が起こると、「帝都復興院総裁」として、現在の東京都の基礎を
作った。昭和3年(1928年)に伯爵を授かり、翌年72歳で没。
2011年の東北大震災が起こった時、その復興が遅々として進まないのを
見て、マスコミが「後藤新平のような政治家がいてくれたら…」とさかんに言った。

実はこの後藤新平は、高野長英の甥の子にあたる。
そして、この血筋からは、多くの俊英が出ている。後藤新平の甥が、
水沢4 昭和の政治家として有名な椎名悦三郎であり、新平の孫には、
社会学者の鶴見和子や、哲学者の鶴見俊輔がいる。高野長英自身は
アクの強い人であり、悲劇的な最期を遂げたが、その子孫は悲劇的
ではなく、みな立派で、まっとうな業績を上げた。

江戸時代、日本には60の藩があったというが、多くは水沢のような
小藩でありながら、それぞれが藩士を教育する学問所を持ち、
特に優秀な若者には、町ぐるみ藩ぐるみで、江戸や長崎に留学させて
育てたのである。それがやがて日本をしょって立つ人材となった。
それが、時には小さな田舎町の通りの1㎞圏内に、歴史の教科書に
載るような人物が3人もいるような風景を作った。
翻って、幕末の長崎には、勝海舟や坂本龍馬や、高杉晋作や高野長英
など、日本全国から秀才が集まってきて、あふれるような土地だったのに、
長崎の地元からは、ついに教科書に載るような人材は出なかった。
だいたいが、裕福な町民がのんびり暮らしているだけの町だったので、
これはまあしょうがない。
(2014年7月)

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