石の2 森林太郎の失敗


脚気1 ビタミンBの不足による病気、それは脚気(かっけ)である。
肉食や、小麦を原料とするパン食をする欧米ではほとんど見られない
病気である。だから最初は、アジア特有の風土病とも見られていた。
足腰が弱り、歩くにも不自由し、やがて身体が弱っていって
やがて、死に至るというのである。

日本でこの病気が顕著になったのは、江戸時代末期である。
「江戸患い(わずらい)」とも言われた。なにしろ、江戸で地方藩士が、
この病気にかかっても、故国に帰れば、ピタッと治るのである。
皆が不思議に思った。
現代から見ればすぐにわかるのだが、原因は白米だった。
当時の食事というのは、少ないオカズで、ゴハンをもりもり食べる
というのが普通だった。そして、元々、お米は玄米で食べるというのが
普通だった。ところが、江戸において、金持ちや武士などの間で
精米した白米を食べることが流行り始めたのだ。確かに、その方が
うまいのである。ただ問題は、精米すると、米からビタミンBが
含まれている胚を削り取ることになる。
つまり、少しのオカズに大量の白米ばかりを食べることにより、
皮肉なことに、富裕層に脚気という病気が蔓延したのである。
幕末の将軍・徳川家定も、家茂も、皇女和宮でさえも、
これが原因で死んだという。

江戸に単身赴任していた地方の藩士が故郷に帰ると、その病が
脚気2 癒えたというのは、地方では玄米や麦飯を食べていたからである。
麦にはビタミンBが充分に含まれている。つまり、麦が原料の
西日本のうどんや、信州のほうとう。あるいは、蕎麦などを食べて
いれば、脚気とは無縁だったのである。

そして、その脚気が最大の悲劇となったのが、日露戦争である。
特に、乃木大将が指揮して行われた旅順要塞の攻防戦である。
当時の陸軍では、徴兵した兵隊達の士気を上げようと、食事には
白米を出した。田舎の貧農出身の兵隊の中には、それだけで感激
する者も多かったという。ところが、多くの兵隊が脚気にかかって
しまったのである。
ロシア側から見ると、突撃してくる日本兵の足元がフラフラとして
いて、まるで傷病兵のように見えたという。実は、戦いで死んだ
兵隊よりも、脚気で死んだ兵隊の方が遥かに多かったのだ。

同じ頃、明治海軍でも、水兵に脚気にかかる者が多く、このままでは
戦争遂行に関わると頭を悩ませていた。軍艦を動かし、大砲を打つ
ということには、緻密な連携プレーが欠かせないからである。
しかし、イギリス海軍に留学していた海軍軍医・高木兼寛は、欧米
には脚気がないのに注目し、パン食のせいではないかと思った。
そして、遠洋航海で、パン食と白米食の組を分けて実験した結果、
パン食に脚気が出ないという結果を得て、パン食を奨励したが、
水兵がパン食を嫌がるために、パンの原料の小麦に注目し、
麦飯あるいは玄米を食べさせたところ、同じく脚気が激減した。
ロシア・バルチック艦隊を破った東郷の日本海軍の勝利には、
この食事改善がずんぶん貢献したのである。

脚気3 もちろん、高木はその効果を早くから陸軍にも伝えていた。
ところが、それに猛然と反対したのが、森林太郎・陸軍軍医総監、
のちの文豪・森鴎外である。
なぜ反対したかというと、彼はドイツのコッホ細菌医学研究所に
長く留学していて、脚気もあくまで細菌による病気だと考えていた。
そして、貧しい田舎から従軍してくる兵隊は、白米を食べられる
ことが何よりもうれしいのだから、その幸福を奪うべきではない
と主張した。その結果、旅順要塞攻防の陸軍兵隊には、脚気が
蔓延した。25万人の脚気患者を出し、2万人が死んだという。

実はその後、海軍の報告に基づいて、最前線の陸軍諸部隊では、
玄米や麦飯を摂る部隊がどんどん増えていったが、森林太郎は
あくまで、それを公認しなかった。後々になって、彼の退任後、
海軍の高木兼寛の方針が正当だったと認められても
森は自分の誤りを一生涯、認めようとはしなかった。
あくまでも自分の失敗を認めようとはしなかった。

その後、脚気の原因が解明された後の昭和になっても、
日本人から脚気はなかなか減らなかった。一般民衆に
おいしい白米食がいよいよ普及し、そのくせ、
おかずが貧弱だったからだ。
そこで、昭和の軍隊がビタミンB1欠乏を補う
脚気4 脚気の薬として、民間の武田薬品に作らせたのが、後に
普及薬となって売り出された「アリナミン」錠剤である。
武田薬品は戦後、「疲れがとれる」というコピーを加えて
市販薬として売り出し、大ヒットして、武田薬品が日本一の
薬品会社にのし上がるきっかけになったという。
ただ、戦後、日本人が白米を主食としながら、脚気になる人が
いなくなったのは、様々なおかずを食べるようになり、
そこから、ビタミンB1を自然に取るようになった結果である。


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