石の2 ぼくの69(シックスティーナイン)

691 同じ長崎出身で同じ年齢というだけで、なんとなく親しみを感じて
いる有名人が、ぼくには二人いる。さだ・まさしと、村上龍だ。
歌手のさだ・まさしとは何の縁もないが、村上龍に関しては、
学生運動の関係でひょっとするとニアミスしたのではないかと
思っていることがある。それは1969年、高校3年生の時だ。
ぼくは、長崎西高校に数名しかいない反戦高校生の一人だった。

ある時、長崎県内の反戦高校生が集まって、長崎北高校へデモに
行ったことがある。平日であり、北高校で授業をしている普通の日を
狙ったのであるから、デモに駆け付けた高校生は皆、何かしらの理由
をつけて学校を休んで集結してきたことになる。
なんで北高校へデモをかけたかの理由は覚えていない。

とにかく、最初は長崎駅前のバス乗り場に昼頃、普通の私服で集合して、
一挙に乗り込んだので、バスの運転手さんは「なんだ、なんだ、今日は
何の日だ?」と不思議に思ったに違いない。なにしろ、長崎北高校
というのは、長崎郊外の山の上にあり、バスの終点なので、通学時間
帯以外は、乗客もまばらな路線のだ。
そして、北高校に近づいた頃、ぼくらはいっせいに紙袋に隠していた
ヘルメットをかぶり、学生運動の闘士に豹変した。その姿で、順々に
692 バス賃を払いながら降りてったので、運転手さんは目を丸くしていた。

終点でバスをどどっと降りた我ら30数名の闘士(?)は、
北高校の門前に駆けつけて座り込み、代表がさっそく拡声機でもって
「我々わあ、現在の横暴な、この権力主義的な体制に対してえー」
などとやり始めたわけだが、北高校側は、2,3人の教師が
遠くで見守っているだけで、何の反応もない。
ある程度、それは予想していたわけだが、それにしても、
北高校の位置する場所がとにかく田舎過ぎた。春の陽気で気分も
良く、アジ演説の合間に、うぐいすがホーホケキョと鳴く。
実にのどかであり、眠くなってくる。
アクビをしていた奴もたしかにいたんだと思う。

その時である。後ろの列に並んで座っていた男の一人が、
「長崎の奴らって、どうも、だらしねえなあ」と言うのが聞こえた。
ぼくが思わず振り返ると、仲間があわてて、そいつをたしなめている。
まあ、そう言われてもしょうがないなと思いつつ、
隣の長崎の仲間に「あいつら、どこの奴やろ?」と聞くと、
佐世保北高から来た連中らしいよ」ということだった。
ぼくらはアジテーションを30分くらいしただろうか、後は現地解散と
なって、畑の中の坂道を2,3人ずつおしゃべりしながら降りていった。
きれいな女子もおり、ほとんどピクニック気分だった。

その後、東京の大学生になり、数年経った頃、武蔵野美大の学生が
「限りなく透明に近いブルー」という小説で芥川賞を受賞したのだが、
それが村上龍といって、長崎県立佐世保北高出身であり、しかも
693 ぼくと同じ歳だという。「へえ!」と思って、その小説を読んでみたが、
あまりの読みづらさと、感情移入できない内容に辟易して、十数ペー
ジでやめてしまった。しかし、その後も彼の世評は高まるばかりであり、
自作を映画化して監督をやったり、テレビ番組にも出演し始めた。
あまりその小説には興味はなかったが、ある時「69」という、彼の
高校3年生頃の自伝をコミカルに描いた小説が出たというので、
そういうものならばと読んでみると、これはなかなかおもしろかった。

彼は高3の時、反戦学生というか、既存の体制に挑戦的になり、
高3の夏に、ヘルメット姿で佐世保北高校の屋上を仲間とバリケード
封鎖して垂れ幕を下げて、謹慎処分になっている。この事件の
時の写真が、長崎新聞に出ていたことをぼくは覚えており、なんか、
佐世保北高校の奴らってのはすげえなあと思ったものだった。
そして、今になって、長崎北高校にデモをした時のことを思い出した
のだ。当時、デモにまで参加する反戦高校生は各高校に2,3名くら
いしかいなかったし、あの時、ぼくの斜め後ろで「長崎の奴らは」と
毒づいて仲間からたしなめられていたのは、あの小説から考えても、
彼以外にはあり得ないだろうと思うのだ。
(2010年)

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