石の2 長崎の初代市長は会津のサムライだった

長崎会津1 長崎出身の中高年ならば誰でも知っている「ねずみ島」
という水泳教室が、旧・会津藩士により作られたことを以前に
書いたが、長崎と会津藩士とのつながりは、それだけでは
なかった。なんと、長崎に、横浜、函館に次いで日本で3番目の
近代的上水道を整備した長崎県知事と、長崎の初代市長も、
実際に戦場で薩長軍と戦った旧・会津藩のサムライだったのだ。

まず、明治19年に長崎県知事になった日下義雄だが、
その弟は白虎隊の一員として飯盛山で自刃した石田和助である。
彼自身も鳥羽伏見の戦い、会津戦争、函館戦争と戦い続け、
榎本武揚らと五稜郭で降伏し捕虜になったという履歴を持つ。
後に赦免され、井上馨から才能を認められ、岩倉使節団に
加えられて欧米を回った後、内務省の官僚になった。
彼が欧米を見て感心したのは、市民のための生活基盤、
要するにインフラを整えるのは、役人の義務ということだった。

そこで、長崎県知事になって最初にやった仕事が上水道を
作るという仕事だった。そのために本河内ダムという
貯水ダムを作った。こういう方式は日本初だった。
そのために、長崎市の年間予算の7倍を費やし、
賛否両論が湧き出たが、やり抜いたのである。
なにしろ、長崎には大きな川がないので必要だった。

その時に、彼の力になったのが、やはり旧・会津藩士であり、
長崎会津2 長崎初代市長に立候補して当選した北原雅長である。
彼の兄は会津藩家老の神保修理であり、会津戦争で、
修理もその妻の雪も、父親も自刃して果てると、北原は
会津鶴ヶ城の籠城戦を指揮して戦う。降伏して捕虜になるが、
後に、新政府の役人になると、能力を認められ、
長崎市長にまで抜擢されるのである。
考えればすごいなあと思う。両者とも、薩長を相手に
戦場で兵を指揮して実際に戦ったサムライなのだ。
長崎といえば、勝海舟や坂本竜馬、あるいは薩長や
土佐の岩崎弥太郎などの活躍の舞台であり、東北の
会津とは何の繋がりもないと思うのが普通である。
だから、意外な歴史なのである。

意外といえば、三菱長崎造船所の初代所長も
山脇正勝という人だが、この人は、旧・桑名藩士である。
桑名藩というのは、その藩主の松平容敬は、
会津藩主・松平容保の弟であり、当然ながら佐幕派で、
藩主自らが函館戦争にまでついていったほどだ。
桑名藩士の山脇も藩主について、函館戦争においては、
新撰組の土方歳三に従って戦ったという。つまり、
一か月間ではあったが、新撰組隊士だったのだ。
函館が降伏して、捕虜になり牢に入れられたが、
明治になると赦されて、やはり能力を認められ、
土佐の岩崎弥太郎が起こした三菱会社に引き抜かれ、
長崎造船所の初代所長にまで抜擢された。
高島炭鉱の社長も兼ねたという。
長崎会津3 いわば、三菱長崎造船所の初代所長は、
履歴を辿れば、新撰組隊士だったわけである。

それにしても、明治新政府というのは、
官軍である薩長土肥の人間を中心にして作られた
わけだが、敵側であった幕府軍の人間でも、これは
と思われる人物は、戦いの後にはそれなりに遇し、
登用したのである。殺すには惜しいと思う人間がおり、
そういう評価をできる人間が新政府にもいたということだ。
五稜郭で抵抗した幕府海軍の代表である榎本武揚の
ために頭を丸めてまで命乞いをしたのは、薩摩の
黒田清隆だった。人物を見る目を持った人だった。
その一方で、方面司令官が人物を見る目がなかったために、
殺された幕府側の悲劇の人物も多い。
例えば、幕府家老の小栗上野之介、あるいは長岡藩家老の
河井継之介などは、もし明治政府に登用されていたら、
どれだけの仕事を成しただろうと考えると、実に惜しい。

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