石の2 青葉城の大手門は佐賀からやってきた


なごや2 福岡に住んでいた頃、海辺の一泊キャンプで、
とてもよかった場所がある。
佐賀県の東シナ海に面する、波戸岬(はとみさき)である。
福岡からは、海沿いに西に車で1時間半、、唐津の先。
公営キャンプ場だが、今みたいに小ぎれいな区画割りも
されていなかったので、料金も
ほとんどタダみたいなもんだった。

海岸から流木を拾ってきて、焚き火をして、
海に沈む夕陽を見ながら、食べ物を焼いて、酒宴をした。
当時の仲間には、変な人が多くて、エコロジー運動を極めた結果、
マクロビオテックや自然食、果ては宇宙人とチャネリングを
しているという人までいて、精神世界の話題で盛り上がった。
ニューサイエンスがブームだった頃で、
今となっては懐かしい。それでも、みんな酒はよく呑んだ。

翌朝、近くの呼子(よぶこ)の朝市に、みんなで出かけた。
全国的にも有名な朝市である。近在のおばちゃん達が、
狭い通りにズラリと海産物を拡げて売っている。
名護屋1 たいていが、当日の朝に水揚げされたものである。
ぼくらは、それらの雑魚や、蟹を買い上げて、
キャンプ場で味噌汁にして、朝食にした。
いやはや、その美味かったこと。

その後、波戸岬を散歩した。
穏やかな海域に、平らな岬が伸びている。
「グランドジャット島の日曜日」というスーラの絵があるが、
あの穏やかな公園の絵の気分に近いと思った。
観光地である波戸岬には、海底をガラス越しに見る施設があり、
ポニーが引く観光馬車がおり、駐車場の傍らには、
サザエを焼いて3個500円で食べさせる屋台も並んでいた。

海べりの散歩を楽しんだ後は、テントを畳んで、
近くにある名護屋城へと移動した。
名古屋城ではない。名護屋城である。
規模としては、大阪城に匹敵した、と言われている。
豊臣秀吉が、大陸進出のために築いた城だ。
波戸岬を含む、ここいらの半島がほぼ城郭の跡である。
狭い村道を走っていると、突然、「伊達政宗の陣所跡」という
看板が現れたりする。全国の武将が駆り集められたのだ。
名護屋3 石垣があちこちで、崩れかけているが、
一の丸跡に登ると、東シナ海が開けて、海風が気持ちいい。
遠くに霞む島影は、壱岐か。

秀吉はここを日本側の前線基地として、
大陸に攻め入ったのである。朝鮮に最短距離の土地である。
目的は中国征服である。今から考えると、途方もないが、
晩年のちょっとイカレた秀吉には、何でもあり、だったのだろう。
なにしろ、鎌倉時代に、中国辺境のモンゴル族が、
漢民族の王朝を乗っ取って「元」という国を作り、
朝鮮を手下にして、日本にまで、攻め込んだ
という歴史が過去にある。
それならば逆もあり、というわけだ。秀吉はそう考えた。

まず、中国や朝鮮との橋渡しになっている外交役の対馬藩に、
朝鮮国に手下になるように命ぜよと、気軽に言った。
どうも、そこのところ、情報が少なかったと言わざるを得ない。
なにしろ、朝鮮国は明の時代から、中国を宗主国と仰いでいる。
中国に逆らってまで、日本に従うわけがない。
困った対馬藩は、外交文書を様々に改ざんした。
名護屋4 どちらにも当たり障りのないものにした。
朝鮮国に対しては、ただの道案内だと嘘をついた。

で、秀吉の軍隊が、朝鮮半島に渡ってみると、
朝鮮国の軍隊から、さんざんな反抗をくらうのである。
まあ、朝鮮国としては、当然の反抗である。
食料の現地調達もままならなくなった秀吉軍は
いったん引き上げる。
が、秀吉の怒りは、そのまま朝鮮国に向けられた。
で、次の慶長の役は、ストレートに「朝鮮征伐」となるのだ。

本来の目的である「唐入り」が、「朝鮮征伐」に変わったわけで、
朝鮮国としては、いい迷惑である。
しかし、今度も中国の明軍の加勢もあって、秀吉軍は苦戦した。
秀吉が国内で死んだせいもあって、全軍引き上げる。
この秀吉の大陸侵攻は、壮大な無駄に終わり、
ただただ、朝鮮半島人に、日本嫌いの感情を残すことになった。
これが、後々にまで、感情的なしこりを残すことになる。
名護屋5 本当に、何も残らない、無駄な戦いだった。

その城跡の木陰で、ぼくらはピクニックの昼食をした。
各自が持っている食べ物をみんな、真ん中に出し、
それを好き勝手にみんなで食べるという、バイキングである。
オニギリがあり、カマンベールチーズがあり、アジの干物があり、
明太子があり、鶏の唐揚げがあり、パンがあり、ウニがあり、
ワインを飲みながら、食い散らかした。
バイキングってのは、部屋の中でやるもんではないと思った。
戸外でやると、なんでも素晴らしくおいしい。

ところで、奥州の覇者だった伊達政宗は、
「もう少し早く生まれていれば、天下を狙えたのに」
と言われた程の野望高き人物であり、
秀吉の配下になった時も、家康の配下になってからも、
彼らの戦争に加担しながら、一方で、東北のあちこちを
掠め取るような戦さをやっている問題児であった。
「油断も隙もならない」と見られた。
謀反の噂も絶えなかった。ところが、いいわけもうまく、
その度に事なきを得ている。

名護屋6 ヨイショもうまかったと見え、秀吉の頃には、秀吉好みの
桃山文化の華麗な建物を領内に、たくさん作り、
家康時代になると、家康を祭る東照宮を、仙台郊外に作った。
そういう政宗であるから、秀吉の「唐入り」に際しては、
割り当ての3倍の軍勢を朝鮮半島に送った。
それが大活躍したので、秀吉も大喜びで、
名護屋城の大手門を、そっくり、政宗に与えた。
移築してよい、というわけだ。ご褒美である。

それが、昭和の空襲で焼け落ちるまで、
仙台市民に親しまれていた、青葉城の大手門である。
その威容は、仙台の戦前の写真に数多く残されていて、
仙台市民の誇りにもなっているが、それは計らずも、
名護屋城の規模の大きさを語ることにもなっている。
青葉城の大手門は、東シナ海の風で磨かれた門だったのだ。



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