石の2 ねずみ島と、姿三四郎


ねずみ1ねずみ島」といえば、昭和40年以前に生まれた長崎人なら
一様に、「なつかしかあ!」と思う、海水浴場である。
長崎港沖合いにある周囲600m程の小島なのだが、
ただの海水浴場ではない。一般人が来ることも出来るが、
長崎市の子供達に水泳を教える、海の学校だったのだ。

夏休みの自由参加で、会費を払うと、木製の手形をもらえる。
それが、ねずみ島に渡るポンポン船のフリーパスになっていて、
紐で首からぶら下げる。子供達は、その紐に、お小遣いとして、
五円玉を数珠のように通して、ぶら下げて持っていった。
海水浴場の売店では、樽からすくってくれるコップ一杯の
コーヒー?飲料が15円だったと思う。けっこう、うまかった。

学校といっても、授業という形式があるわけではなく、
好き勝手に泳いでいればよかった。ただ、一日に一回、
自由参加の遠泳の進級試験があり、それに挑戦して
階級を進めることが、誰しもの目標だった。
階級が進むと、それは水泳帽子で、はっきりわかるので、
同じ歳でも、階級が上の人間は、尊敬された。
休憩できる浜も、階級別に違っていた。

小学校5、6年の夏休み、ぼくはほとんど毎日出かけた。
一日中泳いでいて、真っ黒に日焼けした。
ぼくは進級試験は怠けて受けなかったので、最低級の
ねずみ島2 白地に赤線一本の「丁一」のままだったが、それでも
夏といえば、ねずみ島が一番の楽しみだった。

そのねずみ島については、伝統が古いということは、
薄々聞いていたが、最近やっと知ったところによると、
創設が明治35年と古く、それを運営する長崎游泳協会
を作ったのは、意外にも、二人の旧会津藩士だった。
一人は、鈴木天眼という、大陸に渡った後に長崎に来て、
「東洋日の出新聞」を発行した人物で、もう一人が、
西郷四郎である。驚いた。日本柔道の基礎ともいえる
講道館柔道の発展に貢献した柔道家であり、
小説や、黒沢明の映画にもなった「姿三四郎」の
モデルである。

しかも、この西郷四郎は、幕末の会津藩の家老
西郷頼母(たのも)の養子だったのだ。頼母という人物、
徳川家から、藩主・松平容保が京都守護職に命じられた時、
「火中の栗を拾うような」役目であり、辞退するよう進言したが、
それが容保の怒りに触れ、家老職を解任、蟄居させられたが、
幕府方が不利になると、再び家老に戻され、薩長と戦った。
ねすみ3 しかし、会津での防戦が無理と悟ると、五稜郭の戦いに加わった。
ただ、会津に残された母や妻子などが自刃したことは、
会津の悲劇として有名である。

松平容保が後に、日光東照宮の宮司となって、明治を生き永らえた
ように、頼母も福島県伊達市霊山にある、霊山神社の宮司となって、
77歳まで生きたのだが、その途中で養子に迎えたのが、
同じ会津藩士の息子の四郎だったのだ。
西郷四郎は、やがて加納治五郎が起こした講道館柔道に入る。
小さいものが大きい者を投げ飛ばすという「山嵐」などの術で
講道館柔道に貢献した四郎だったが、名声よりも、
人のために役に立ちたいと思い、講道館を去った。37歳。
それが、なんで長崎に来たのかというと、その少し前の
初代長崎市長が会津出身ということの関係もあるのか。

で、長崎に来てみたら、二本松出身の旧会津藩士の
鈴木天眼という大陸帰りの面白いやつが、長崎で新聞を
創刊しており、かたわらで長崎遊泳協会というのを作りたい、
武家の泳法を伝えたいというので、監督を引き受けた
それが、ねずみ島の始まりで、70年も続いた。
四郎が長崎に来たのは、37歳の頃であり、結局
長崎には20年住んだ。病気になって、広島の尾道に移って
2年後に他界したが、それにしても、よく考えてみれば、
ねずみ島4 会津というのは、内陸の町であり、海とは縁遠い。
しかし、手記にはこう記してある。

…「長崎の海は、きれいだった。
大波止から団平船(だんべいせん)という舟にのって、
協会のつくった水泳場のある、ねすみ島に渡る子供たち
の声が、海面をゆるがせて、ひびいてきた。
砂浜に椅子を置いて、子供たちを監督する私の心には、
故郷・会津の、常波川(とこなみがわ)で泳いだ
ワンパク少年の頃の、思い出が浮かんでいた」…

ねずみ島は惜しくも、昭和47年で閉鎖された。
段々、海が汚れてきたことと、造船所が大型船を作る
ために、沖合いに施設を広げる必要があるという理由だ。
今では、島も埋め立てられて、陸続きになってしまった。
(2008年)


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