2の石 日光参拝の話‥江戸時代の場合


日光のえげつない観光商売に、ムカムカしたぼくだったが、
昔の様子を記した本を読んでみると、それなりの伝統らしい。

…1783年のことだが、宿坊に泊まって案内付きで250文。
この頃までは僧が案内していたらしいが、観光地として賑わうように
なると、旅籠や茶店の者も案内をするようになってくる。
江戸後期には、町方の者が寺僧に代わってガイド役を引き受け、
案内料を取り、それが生活の一助として定着した。

現在では、拝観料を払えばどこでも自由に見物できるが、
当時は勝手に歩き回ることはしなかったようだ。というのも、
当時は、見物にしても、一種の身分証明書みたいなものの提出が
必要で、かなり面倒な手続きが必要だったらしい。だから、
案内人は、その手続き代行業も兼ねていたというわけだ。

「案内一人賃百文」というのは、参拝人一人につきのことで、
5,6人まとめて案内されても、原則としてそれぞれが百文払う
のである。暴利といっていい。
だが、文句の言葉が記されていないのは、案内者が一日
付きっ切りだったし、微に入り細に渡って懇切丁寧な説明をされ、
やむなしと思ったのだろう。
ただ、百文はガイド料であって、拝観料はまた別に寺に払わなければ
ならなかった。他に、寄付の形の奉納金も結構な額になった。

 そして、社寺での拝観料や案内料の徴収は、当時としては、
日光に限ることではなかった。
奥の細道で、芭蕉に随行した曾良もそのことを書いている。
平泉、月山、出羽三山でも、さんざんに取られ、曾良は、
「湯殿山 銭踏む道の なみだかな」という俳句を作っている。
湯殿山では、身に付けている金銀は全て置いていかねばならず、
取り落としたものも拾ってはならないとされていた。

登った山上では、宿賃も食べ物も今で言う観光地値段で高く、
あちこちの霊仏を拝む度に、お金を取られて閉口している。
山麓の社寺にやってきた旅人には、山伏たちがかなり強引に
登山を勧めていたことを書いている。
なぜ、強引に登山を進めたかというと、
やはり金がからんでいたらしい。

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