石の2 江戸時代の長崎で肉食

肉食1 長崎は、戦国時代にキリシタン大名だった肥前大村藩主の大村純忠が
ポルトガル人に港として提供して後、貿易港として栄えてゆくのだが、
日本側でも、堺や博多の商人達が、ベトナムやタイ、フィリピンなどを
通して、中国とも貿易をしていたために、長崎の町には、ポルトガル人
の他に中国商人達が自由に歩き回っていた。
それはちょうど、東南アジアの港のあちこちに日本商人が進出し、多くの
日本人町があったのと同じである。そういう中から、山田長政がタイ王国
の大臣にまでなった話は有名である。
季節風に乗って唐船で長崎にやってくる中国商人達は、民家に泊まって
いたが、なかには一軒家を借りて、中国から妻や子を呼び寄せて暮らす
人もいた。そういう中から、通訳として帰化する人もいたのである。

しかし、サン・フェリペ号事件を契機として、1614年に家康により、
キリスト教禁止令が出されると、ポルトガル人は追放され、長崎は
幕府直轄領になり、日本の商人が東南アジアに出かけて貿易をする
ことも禁じられた。キリスト教の布教をしないと約束をしたオランダ人と、
中国人のみが、長崎での貿易を許されることになった。ただし、それは
あくまで幕府の管理下のことである。

ただ、オランダ人が最初から、出島という埋め立て地に閉じ込められたの
に対して、中国人は戦国時代からの名残りで、最初は自由に長崎の町を
歩き回ることが出来た。そうすると、中国人というのは勝手に闇商売をする
のである。なんか昔も今も変わっていないようである。業を煮やした幕府は
とうとう中国人に対しても、出島のように塀で囲んだ唐人町を作って、そこ
に閉じ込めることにした。それが唐人屋敷である。
ただ、その面積は出島の3倍以上もあり、人数は千人以上もいた。

肉食2 そして、出島のオランダ人も、唐人屋敷の中国人も、出入りを厳重に
制限されたわけだが、どうも、それは最初のうちだけで、時間を経ると、
けっこう、なあなあになっていったようである。なにしろ記録によると、
遊女が出島や唐人屋敷に入るのは、けっこう自由だったし、門番と
親しくなれば、外部の人間でもけっこう出入りが出来たそうである。
外国の情報を得ようと、多くの洋学者が長崎に来ては、つてを頼りに
出島に入り、見聞したという記録が残されている。まあ、そのおかげで、
日本が近代国家になるための、本当の窓になったのである。

ではその唐人町において、中国人たちは何を食べていたのだろうか?
実は中華料理なのである。しかし、中華料理というと豚肉が欠かせない
はずである。しかし、日本では肉食の習慣はなかったので豚肉はない。
と思っていたら、中国人とオランダ人向けに、稲佐山と立山の山中に、
肉食用の牛と豚がちゃんと飼育されていたのである。そして、長崎人は
中国人と親しく付き合っていたので、中華料理の影響を受けて、実は
江戸時代を通しても、けっこう肉食をしていたのである。なにしろ、長崎
には江戸中期に、牛と豚の肉を売る店が2軒ほどあったという。
さらに、日本全国においても、肉食はそれほど珍しくなかったという。

だいたい、野鳥の肉を食べるというのは田舎では一般的であったし、
江戸においても、鶏を捌いて焼き鳥にして食べるという料理は初期から
普及していて、当時の調理本も残っているほどだ。高貴な人の間では、
鶴もよく食べられていた。鳥の他にも、山野に行けばウサギを捕まえて
肉食3 食べていて、これは鳥と同じだよと言い訳するために、一羽二羽と呼んだ
のである。そして、イノシシや鹿も獲れたなら食べていた。だから花札に
なぞらえて、鹿肉を使った鍋は「モミジ鍋」と言い習わしていたし、イノシシ
の肉は「山鯨」と読んでいた。鯨肉というのは、日本人にとっては普通に
食べていた肉である。そして、僧侶ですらけっこう肉を食べていたという
記録もある。なにしろ、精進料理の「がんもどき」というのは結局、肉食の
味が忘れられなかったので、肉のもどきを作ったのだ。
というわけで、日本人の肉食は別に、明治時代から急に始まったのでは
ないのである。逆に、明治時代に外国人が日本に来て驚いたのは、日本
人が馬肉を食べていたということである。あちらでは食べないからだ。
(2018年4月)


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