石の2 日暮里、谷中、根岸

にっぽり1 仙台に引っ越してから、何回も東京への日帰りバスツアーに参加
している。東京に住んでいた若い頃は、お金も時間もなかったし、
第一、 東京のことをよく知らなかった。しかし、東京を離れて後に、
いろんな歴史小説を読み、歴史ドラマを観るうちに、幕末の江戸に
興味が湧き、行きたい場所がたくさんあるとわかったのだ。しかし、
福岡からでは遠すぎて無理。仙台に来てやっと、日帰りバスツアー
で行けることがわかったのだった。

上野、浅草、巣鴨、葛飾柴又、月島、浜離宮、新大久保など、次々に
行ったのだが、東京は空襲で焼かれたにも関わらず、あちこちに、
昭和の商店街が実にたくさん残っているんだなあと感心する。そして、
そういう商店街の中で、「谷中銀座」が現在とても人気があるというので
そのバスツアーに喜んで参加した。ところが、「では、ここから歩きます」
ということでバスが止まったのが山手線の日暮里駅だった。しかし、
ぼくは「おいおい…」と思った。日暮里というのは、ぼくが大学に入って
東京に来たばかりの頃、下宿していた町だったのだ。当時、ぼくはこの
駅を毎日のように使っていたのに、その界隈のことは何も知らなかった
のだ。

にっぽり2 そして、散策して初めて知ったのだが、山手線の上野駅、鶯谷(うぐいす
だに)駅、日暮里駅というのは、上野の山をぐるりとカーブしながら走って
いるということだ。つまり、その3駅は上野台地の崖の下にあるのだ。
だから、日暮里駅から急坂を登ると、谷中墓地だが、その先を少し歩くと、
もう上野公園なのである。ぼくは日暮里と上野がこんなに近いことを知っ
てビックリした。

東京というのは地下鉄網が発達しているので、どこかに行くとなると、
目的地に近い地下鉄の駅を決めて乗るのだが、実は歩いてみると
え!こんなに近いの?と思うことが多い。例えば、銀座と築地である。
ぼくが銀座で仕事をしていた30歳代の頃は、築地などはずっと遠くの
海の方だと思っていた。ところが最近、実際に歩いてみたら、なんの
ことはない、けっこう近所なのである。そういうことが多い。

そして、上野の山のほとんどは徳川幕府の後援によって、寛永寺が
営まれ、幕末、その座主として京都朝廷から輪王寺宮が招かれていた。
この人は、明治天皇の叔父に当たる人である。寛永寺の座主といえば
この人から何代か前の宮の、有名なエピソードとして、上野に住んでから
ウグイスの鳴き声を聞く度に、「京都のウグイスの鳴き声と違う」と嘆き、
京都からウグイスをたくさん捕獲して江戸に送ってもらい、上野に放った
という。それが鶯谷の名前の元だという。

幕末に戊辰戦争が起こると、勝海舟と西郷隆盛の会談によって、江戸を
無血開城はしたが、幕府側の反対する武士が、上野の山に集まって
「彰義隊」を結成して、新政府に反抗した。政府軍はアームストロング砲
にっぽり3 の破壊力によって2日で彼らを蹴散らしてしまったが、その時に、窮鼠猫を
噛むという事態にならないように、ひとつだけ逃走路を開けておいた。それ
が、日暮里方面である。幕府軍の敗走兵は、そのどこかの急坂を降りたの
であるが、それが谷中から日暮里への東北方向である。
そして、その先は根岸である。根岸といえば、江戸時代の別荘地である。
上野台地の山裾ながら、清水が湧き出ていて、緑も豊富で、その下には
遠くまで田園が広がっていた。江戸の商人達が、その風景を好んで別荘
を作り妾を住まわせたし、文人達も住まい、隠居した金持ちも住んだ。
有名な俳句がある。「~や 根岸の里の わび住まい」であり、冒頭
には何を入れても様になるという便利な句である。

上野戦争で敗北した彰義隊は散り散りになり、幕府側の輪王寺宮も、
彼を慕う多くの人々に守られて、ついには仙台まで逃げ伸びた。
もし東北列藩に、あくまで薩長に抵抗しようとする意志があれば、
輪王寺宮を天皇として押し立てて、逆の錦旗を作ることも出来たので
ある。しかし仙台藩ですら、どちらに味方するかの意見が分かれていた
ので、結局は仙台藩も官軍に降伏したのである。そのため、輪王寺宮
は江戸に戻されて長い間謹慎することになる。しかし一応、宮家なので、
後にそれなりの待遇を与えられたが、冷視されることも多く、人生を静かに
終えた。上野から谷中、日暮里にかけては、そういう歴史があったのだ。
(2018年4月)
参考:「彰義隊」吉村昭


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