石の2 穏やかな日本人と、危険を求める白人…その2


しばらく前に、群馬県のスーパーマーケットで、金庫目当てで侵入し
た強盗に、事務所で20歳くらいの女性が3人もピストルで殺害される
という事件が起こったが、その撃ち方が、頭に銃弾を撃ち込んでいる
という残虐なものであり話題になった。すぐに誰もが思ったのは、
犯人は日本人じゃないね、ということだった。日本人では、たとえヤク
ザであっても、恨みもない女の子の頭に銃弾を撃ち込むなんてことは
まずやらない。だから、中国人だろうと大方が思った。事件は迷宮入
りになったので、犯人はまだ特定されていないが、いわば大陸っぽい
殺人だったのである。

大陸では昔から、中央アジアの遊牧民族が食うに困ると、ヨーロッパ
や中国の農耕民族を襲ってくるのである。それを防ぐために、大陸の
あらゆる都市は石造りのデカい城壁で周りを囲むようになった。

では、モンゴル民族の支配も無くなり、城壁の必要もなくなった、
農耕主体だったヨーロッパ社会が穏やかになったかというと、
とんでもなかった。こんどは宗教戦争が始まったのである。
イスラエルを奪回するための十字軍の遠征、それはイスラム教
との戦いであるが、さらにキリスト教内部での聖典の解釈について
宗派が生まれ、それによる対立、さらに、カソリックとプロテスタント
との争い、さらに異端審問による魔女狩りなど、虐殺に次ぐ虐殺
の歴史であり、暗黒の中世と呼ぶにふさわしい社会だった。
異教徒を悪魔とみなすキリスト教の教義によって、当時のヨーロッパ
人は宗教的な理由により、積極的に人を殺したのである。
おだやか22 日本の神道には悪魔はいないので、そういうことがなかった。

ただ、仏教の場合は、日蓮宗などのように、他宗派を攻撃するような
過激な宗派もあり、実際に、一向宗の寺に焼き打ちを行ったり、逆に
日蓮宗の方が比叡山の天台宗から寺を焼かれたりして、京都市街が
消失するような大事件もあった。そのように仏教各派は、朝廷と結び
ついて政治的な権威を持ち、多くの荘園を持っていたため財力もあり、
さらに、関所を設けて通行税を取ったり、市場を開く商人から地代を
取るなどして、ずいぶんな金儲け商売をやっていた。そして、それに
文句を言う商人に対しては、槍を持った僧兵というのがすぐに出て来
て「文句あるか!」とすごんだので、戦国時代には、いっぱしの大名
並みの軍事勢力にまでなっていた。

ところがそこに、天下統一を目指し、楽市楽座を方針とする織田信長
が出て来ると、当然ながら対立するわけである。仏教界の腐敗をも
知っていた信長はこれと徹底的に対峙して、比叡山を焼き打ちし、
多くの僧侶を殺し、同時に、叡山にたくさん囲われていた遊女も
みんな殺したらしい。
さらに、もうひとつの大きな仏教勢力であり、今の大阪城があった
石山に門前市を擁した要塞のような本願寺を構え、各地の武家にまで
信者が多く、大きな軍事勢力となっていた一向宗(浄土宗、本願寺宗
おだやか23 とも言う)が敵対すると、これも大戦争の末に信長は打ち破った。
そのおかげで、政教分離が成り、仏教勢力は今のような大人しい
葬式仏教になり、そのため、日本には西洋のような、お互いを悪魔と
みなして殺し合うような宗教対立は、以後無くなったのである。

このように、日本が世界一治安の良い国であり、落とし物をしても
大方は戻ってくるというような、世界の常識では考えられない、
正直で優しくて思いやりのある国である理由は、島国であり、同一
民族であり、異教徒に蹂躙されたことがないということの他に、
多神教であることが大きいと思う。
一神教の国々は、中東のユダヤとアラブのように、一神教をやめる
まで憎しみあっていなければならない。ところが、日本のような多神教
では、全ての大自然が神であり、石ころも野の花も昆虫ですらも神で
あると拝むのだから、どんなものとも対立しないのである。

その多神教は長い間、キリスト教の白人からは、一神教に至る前の
知性が未開で、野蛮な状態の文化と見られていて、だからこそ、それ
おだやか24 ならばキリスト教を教えてやろうと、宣教師が情熱を燃やして海を渡っ
たのである。最近の流行り言葉でいう、上から目線であったのだ。

そして、それは世界中で成功したが、唯一失敗したのが日本だった。
しかも日本は多神教のまま、西洋の文明を取り入れて、たちまち
西欧列強と並ぶ文明国になり、アジアの有色人種として初めて、
白人の大国ロシアと戦争して打ち破ったのである。さらにアメリカとも
戦争をして今度はボロボロになるが、一度自分のものにした技術力
によって、再び世界第二の経済大国にまで発展してきた。
つまり、多神教とは必ずしも、知性の未開ではないのである。
逆に、一神教が一神教ゆえに絶対解決できない「解」を持っているの
が多神教だ。キリスト者は生まれ持った罪というのに悩むそうだが、
それは、対立する異教徒を一生涯、憎み続けるという姿勢そのもの
のことではなかろうか。多神教にはそういう悩みはない。
基本的に、他人を信用して受け入れる、性善説の社会である。

ヨーロッパではよく、ものが盗まれた場合、盗まれる隙を作った人が
悪いとされることがある。しかし、日本では盗んだ人があくまで悪い
のである。盗まれた人が悪いと考えるのは、盗賊の論理である。
おだやか25 大航海時代から始まって、帝国主義でアジアやアフリカを次々に
植民地化していった論理であり、それに酔っていた頃の白人の
無邪気さを、ある意味で冒険心というのである。

その冒険心の行き着いた先が、資本主義社会だったが、これも、
その大き過ぎる格差社会の問題によって息詰まろうとしている。
既に共産主義のユートピアは絶滅した。
今から人々が気付くのは、幸福というのは、時間を忘れさせる
ような享楽ではなくて、日々平安が大切だということだ。
たぶん、これから先は日本発の、和の思想を取り入れた
何かの社会の仕組みが考え出されるだろうし、
その時には、多神教の思想が必ずヒントになるだろう。
(2014年1月)


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