初めての大阪…その3
大阪と奈良への花見のバスツアーである。二日目は、奈良の吉野山
へ行った。大阪からは生駒山を越えてゆく。そういう地形のことを、
今回の地元のバスガイドさんはしっかり詳しく教えてくれた。この人は
しっかりした関西弁である。おそらく50代くらいの中年女性。それがまた、
それが使命であるがごとく、ずーっとしゃべりまくるのである。いくらバス
ガイドとはいえ、九州でも仙台でも多くのバスツアーを経験した中で、
これほどしゃべりまくるバスガイドを見たことはない。奈良県の歴史や
風土に関しても博識であり、そのおしゃべりも笑いを意識してほとんど
吉本バリである。この人が特殊なのか、大阪人はみんなそうなのか、
そこが今でもわからない。とにかく笑いっぱなしだった。
吉野山は奈良の山中である。日本一の桜の景色であると言われている。
山全体が桜だとも聞いていた。しかし実際行ってみると、山全体が桜だ
というのは少し大げさである。「一目千本」という有名な写真風景を撮れ
る場所は三か所あるが、一番有名なのは吉水神社からのものだ。
吉野山の花見の場合、バスツアーや車で来た観光客は下の駐車場から
坂道を相当歩かされることになる。坂道の車道は歩行者天国になっていて
車は地元の人しか通れない。くねって登る狭い道の両側には昔ながらの
団子屋や、葛の店や、漬物店、伝統工芸の店が並んでいる。そのあちこち
から谷向うの山沿いに咲く桜が見えて感心する。道沿いの桜も良い。
ただ、吉野山においては、ほとんどの人が参拝する寺というがあって、
それが金峯山寺・蔵王堂である。修験道の開祖である役小角(えんの
おづね)が、この地で修行して蔵王権現を感得して、この寺を建てたという。
吉野山というのは、この寺があってこそであり、ここに修業にきた行者が
一本一本桜の樹を植えたことにより、桜の山になったのだという。
しかし僕は、この地蔵堂にはほとんど興味はなかった。それよりもずっと
行きたかったのは、その参道から少しずれて、山の突堤になっているような
広場に位置する吉水神社である。実はこここそが、後醍醐天皇が天皇に
よる親政を復活しようとして、無理矢理つくった南朝の皇居なのである。
よくまあこんなこじんまりとした建物を皇居にしたもんだと思う。
そして、豊臣秀吉の時代になると、秀吉が女たちを含む三千人を引き
連れてやってきて同じ場所で盛大な花見をやっているのである。ぼくは
ここが正にその場所だと知ってジーンとしてしまう。
この日、最後に行ったのは奈良公園である。ここでぼくが見たかったのは
東大寺の大きさである。その大きさを感じたかった。なにしろ世界最大の
木造建築である。しかもそれが最初に作られたのは奈良時代である。
実際にそれを見てやはりジーンとしてしまった。どうしてこんなものを作っ
たのかと当時の人の心情に思いを巡らす。それは聖武天皇が仏教の力
によって国を守り、栄えさせようと願ったことによる。よほど仏教の力を
信じていたのだろう。そのため人々が仰ぎ見る巨大な仏像を作り、それを
治める伽藍を建てようと思ったのだ。そのために日本国中から財が集め
られた。当時は天皇の統治による中央集権国家だったので、命令は即座
に日本中に伝えられた。この大仏を作るだけのために、日本中の人々が
協力したと思うと不思議な気がする。しかも、この大仏の表面を金色で
覆うために日本中で金鉱脈が探され、ついに東北で見つかったし、
それがゆえに、東北の平泉に藤原三代が栄えたし、それ以後、次々に
日本から金銀銅の鉱山が見つかってゆくことには貢献したのである。
奈良公園にはテレビで観るように鹿がたくさんいた。そして、ぼくは
多くの観光客が鹿にエサをやっているものだと思っていた。しかし、
実際は、ほとんどの人は鹿と距離を置いて、さりげなく眺めているだけ
なのである。鹿も同様である。鹿にエサをやったり、エサをやるフリを
してあげなくて鹿を怒らして噛まれたりしている人というのはほんの
少数なのである。だいたい、鹿のエサを売っている屋台というのも
一つしかなかった。そして、この日は小雨が降っていたが、ぼくらの
バスガイドが言うには、濡れた鹿の背中を触ったりすると、ものすごく
手が臭くなってしまうという。それを友達同志でなすり合ってはしゃいで
いた白人のバカな若者達を見たことがあるという。
さて二日目の観光を終えてホテルに帰ったのは午後6時。そして、
今夜は昨夜の「なんば」に続いて、もっと下町の「新世界」に出かけた
のである。…つづく
(2019年4月)
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