石の2 魯迅と藤野先生


魯迅12 魯迅(ろじん)といえば、「近代中国文学の父」として、
今でも中国人に尊敬されている文豪であるが、その魯迅が、
1904年から、医学生として日本に留学していた先が、
仙台医学専門学校、今の東北大学医学部だという。
1998年、中国の国家主席として戦後、初来日した
江沢民は、その時に、わざわさ仙台まで足を延ばし、
片平キャンパス内の、魯迅がいつも座っていたという
教室の席に座り、そこで記念写真まで撮った。

魯迅は医学留学生として来たわけだが、自国を離れて
初めて、いかに中国人が蔑視されているかを強烈に知る。
なにしろ、清王朝だった中国はボロボロだったのだ。
イギリスとの阿片戦争に負けたのをきっかけに、
義和団事件、日清戦争などで、みじめな程に負け、
その領土のあちこちを、欧米列強や日本に割譲され、
ほとんど半植民地状態になっていたのである。

当時の日本は日露戦争にも勝った一流国だったが、
ある日、魯迅は学内の集会で、幻灯機による写真を
見る。大陸において、中国人がロシアのスパイとして
日本軍に射殺される映像だった。
日本人学生が嘲笑するのはわかるにしても、映像の
中の中国人も、同胞の射殺を見ながら笑っていた。
魯迅が言いようもない怒りと悲しみを抱いたのは
無理もない。肉体を治すより、心を治すべきと思った。

魯迅13 留学を一年半で切り上げ、自国に帰り、文章を書いて
運動を始めた。そして、口語で書き上げた小説の代表作が
「阿Q正伝」である。負け犬根性に堕している主人公を
自国民に当てはめて痛切にこき下ろした。それが、
中国人にとっては、自身の姿をみる鏡となった。
そして、それが、清王朝に代わる新たな建国の機運に
繋がったのである。いわば、自己を卑下し、自暴自棄に
陥っていた中国人に、人間の誇りを取り戻した人物
と言ってもいいのである。だから、わざわざ今になって、
中国の国家主席が仙台までやってくるのである。

魯迅の小説は、日本人にはあまり親しいものではないが、
ただ短編「藤野先生」だけは、ぼくらの世代では国語の
教科書に載っていたので、よく知られている。
藤野先生というのは、仙台医専における魯迅の担任の
教授であり、日本語が不自由だった彼を心配して、
講義を書き取ったノートを持ってくるように言い、毎日、
懇切丁寧に、朱筆でもって添削加筆してあげたという。
魯迅はその親切を、自国に帰ってからも忘れなかった。
帰国する時、藤野先生は自分の写真の裏に「惜別」と
書いて渡してくれたが、魯迅はそれを、母国に帰っても
その後ずっと机の上に飾っていたという。

この藤野厳九郎という人は、その後、1915年に
仙台医専が東北帝国大学に昇格した時、彼自身は
魯迅2 旧・愛知医学校卒というだけなので、教授になる
資格がないとされ、辞職し、故郷の福井県に帰り、
開業医になっている。1926年に魯迅の「藤野先生」が
発表されると、名前が世に知られるようになったが、
表に出ることを好まず、北京医科大学から教授に
招請されても固辞し、自ら魯迅に連絡を取ることもなく、
1945年8月11日に、往疹の路上で亡くなった。73歳。

魯迅の名残を求めて仙台に来る中国人のほとんどは、
彼が勉学した階段教室を訪ねるのだが、仙台人が
それよりもずっと魯迅を感じる場所が別にある。
彼が下宿していた家である。キャンパスから近い
広瀬川の崖上の道路沿いに、粗末な二階建ての
木造の家があり、今は誰も住んでいないが、
とにかく、そのまま残されている。小さな碑しかないので、
他所からやって来た人は、ただのボロ家が
道端にあるとしか思わないだろうが、仙台の人は、
ここが魯迅の下宿だったと知っているのである。
(最近の若い人を除く)(2008年)


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