石の2 1982年の中国旅行

旅行1 今や中国はすっかり金持ちになり、日本に観光でドヤドヤと押しかけて
来ては、爆買いをするようになってしまったが、今から30年前の中国は、
現在とは比べものにならないくらいの貧しい国であり、中国人が日本に
観光旅行に来るなんて、およそ考えられもしなかった。
だいたい、共産中国との国交正常化が成ったのは1972年の事だが、
1977年に文化大革命が終息するまでは、日本人が中国に行くのも
ほとんど不可能だったのだ。しかし、それから6年、やっと中国は世界
に開かれ、ツアー旅行で行けるようになっていた。

ぼくら夫婦は、中国南部の「広州・桂林一週間の旅」に行ったのだが、
ツアーの最初はまず、羽田から香港へ飛ぶ。香港はまだイギリス領だった
ので、街の様子は日本と変わらない。日本の大丸デパートもあった。
そして二日目、ぼくらは香港から鉄道で、中華人民共和国の広州市へと
入ったのだが、それは資本主義国から共産主義国へと入るということを
意味していた。そこでビックリしたのが、香港領では道端のガードレールや、
建物にはもちろん金属が使われているが、中国領内に入ると、金属製品が
ぱったりと無くなる。それほど貧しかったのである。ぼくらツアー客が広州市
で宿泊したホテルの横で、新しいビルを建築していたが、その足組は日本
なら鉄パイプを使うところだが、中国では全て竹製だった。

旅行2 そして、当時の中国人は、ほとんどが人民服である。ぼくら日本人が自由で
カラフルな洋服を着ているのを見て、そういうものはまだ中国では売ってない
ので、羨ましそうに眺めていた。なにしろ当時は日本のボールペンですら、
なんて便利な文明の利器なんだと、中国人は感心していたのである。
しかし、日本人がそれをお土産にあげようとしても、彼らは受け取らない。
なにしろ、日本人を案内する旅行業の人はみんな公務員なのである。もし、
彼らが日本製品を持っていたとすると、不正をした、賄賂をもらったとして
糾弾されるからである。いわば資本主義を警戒していたのである。

有名な桂林の川下りの船からは、水墨画の世界そのままの風景を眺める
ことが出来て感激したが、途中の休憩所で出されたコーヒーは大豆の粉で
代用したものだった。桂林が田舎だということもあるが、当時の中国では
まだ、本物のコーヒー豆は高すぎて普及していなかったのだ。

国内を移動する時に乗った飛行機は、イギリスから買った中古機であり、
座席に書かれた文字は、半ばかすれていた。そして、出発かと思ったら、
なかなか出発せず、何かトラブルが起こったらしく、操縦席から機長が
あわただしく現れたと思うと、座席の下から竹製のハシゴを出して、機体
の戸を開けて降りて行き、ドンドンと車輪の辺りを叩いているではないか。
ずいぶん長い間、それが続いていたが、やがて機長がハシゴを登って来て、
旅行3 何の案内もないままにエンジンが始動し、動き出したかと思うと、いきなり空
に浮き上がったのだった。今、考えてみれば、操縦席と客席との間はカーテン
一枚だけだった。その後、ぼくらが帰国して一か月後に、全く同じ便の旅客機
が山に激突して、全員が死亡したという話を聞いた時はゾッとした。

中国のトイレというのもすごかった。都会はともかく、郊外の観光地に行くと、
公衆便所には戸がないのである。つまり、個室になっていなくて、大きい方
で座っても、他人に丸見えなのである。お腹が重くて行きたくても、ホテル
までガマンせざるを得なかった。そして、ホテルでシャワーを浴びてタオル
で拭くと、これがガサガサなのである。日本のような柔らかいものではない。
室内にある、お茶用のお湯をいれたジャーは全て、バラ模様のプリントだった。
とにかく、当時の中国というのは、共産中国の建国者である毛沢東が、経済
政策で失敗して、めちゃくちゃな貧乏になっていたままだったのである。
だから当時、中国を旅行した日本人はものすごい優越感を感じていた。
その貧乏な中国人が30年経って、金持ちとして日本中に観光に来るなんて
まさか想像もしなかったことである。

そして、その頃の中国では、最近ギャアギャア言われている「南京大虐殺」
なんて、ほとんど誰も知らなかったし、問題にもされていなかったのである。
では誰がギャアギャア言い始めたのかというと、日本の朝日新聞である。
旅行4 写真を捏造してまで、大々的なキャンペーンを張ったのである。しかし、
当時の日中関係は良好であり、日本側が戦時中は迷惑をかけたと謝罪
しても、毛沢東は「そんなことはない、日本軍が来てくれたおかげで、
共産中国が出来たようなものだ。むしろ、お礼を言いたいくらいだ」と
言っていたのである。ところが、毛沢東が死去し、1993年に日本嫌いの
江沢民が国家主席になると、国内を結束させるために、反日政策を取る。
そのうってつけの材料として南京大虐殺が採用されたのである。
しかも、中国人が殺された人数は毎年拡大してゆき、今では30万人という
ことになっている。当時の南京にそんな人口はいなかったので、まるっきり
のデタラメである。しかし、その宣伝効果は世界中に広まってゆき、今や
ハリウッドで「南京大虐殺」という映画すら作られるほどになった。さぞや、
朝日新聞は喜んでいるに違いない。
(2017年1月)


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