石の2 催眠術はウソなのである


催眠3 催眠法に関しては、ぼくは中学生の頃から興味があり、カッパブックス
で、とてもよく売れた「自己催眠術」を買ったのが、実践の最初だった。
腕が重い、腕が暖かいと自己暗示して、本来は意識でコントロールでき
ないはずの自律神経系をイメージによってコントロールできることを体得し、
その上で「心が落ち着く」「額が涼しくなる」などの、リラックスや集中力を
高める暗示を追加してゆくのである。うまくいったかと言えば、確かに
自律神経系をコントロールすることだけは出来る。例えば、腕がお湯に
浸かっているイメージを脳で描けば、血流がよくなって暖かくなるし、
梅干しを食べるイメージを描けば、唾液が出てくるのである。しかし、
その暗示の流れに乗って、次々と高度な暗示を増やしていけば
積極的になったり、集中力がついたりするかというと、そういう保証は
全くない。だいたい、その効果は本人にもわからない。

しかし、そうなるはずだと思わせたのが、心理学の世界で「潜在意識」の
働きを説いて、世界的権威となったフロイトの存在である。その影響は、
心理学の世界のみならず、哲学や思想あるいは、文学にまで及んだ。
例えば、催眠術の話は、昭和において大ブームになったし、人間の内面
を探る手法として、文学においても注目された。例えば、三島由紀夫の
作品に「音楽」という小説がある。
ある女性が、音楽が聞こえない、と心理療法士に相談に来る。彼は催眠法
を用いて、彼女の潜在意識に入り込み、その原因を探ろうとするのである。
しかし、彼女が巧みにウソをついていることに気付く。そこからは、催眠法に
寄らず、あくまで精神分析と、自分の勘と推理によって、その原因を探って
催眠2 ゆくというサスペンスなのだが、三島由紀夫は、潜在意識というものに関して
は肯定しながら、それを操る催眠法に関しては疑っていた。賢明である。
フロイト自身も、自分で行う催眠法がうまくゆかず、その後は、もっぱら患者を
ベッドでリラックスさせてから、イメージによる自由連想法という精神分析法を
編み出してゆくのである。

ぼくは、潜在意識の心理学と、催眠法に関して、とにかく知りたいと思い、
出来るならば催眠術を体得してみたいと思い、サラリーマン生活の傍ら、
日本催眠学会の実践講座に通い、中野にある個人的な催眠教室にも
通い、催眠療法士となったのである(公的な資格ではない)。
しかし、そこではっきりしたことは、催眠法によって相手をリラックスさせて
自己治癒能力を高めることは出来るが、潜在意識に入り込んでいって、
相手をコントロールするようなことは、ほとんど、あり得ないということだ。
だいたい、催眠にかかる人というのは本当に稀なのである。
ましてや、テレビなどで行っているような、好き勝手に人を操るなどという
催眠術はほとんどウソであり、あれは、かけられる客達が、みんなの前で、
しょうがなく演じているだけである。

なにしろ、催眠法も催眠術も、基本は相手の言う通りになっていると
思わせる誘導つまり、騙しが必要なのである。催眠法ではラポールを
取る(信頼を得る)と恰好の良いことを言うが、要するに騙すのである。
例えば、相手の両手をこちらで支えておいて、パッと手を離すと腕は
自然に下がるのであるが、それを「腕が下がってゆく」と言うと、相手は
なるほどと思う。そういうのを組み合わせて心を誘導するのである。
いわゆる新興宗教というのは、そういうのを大規模なスケールで行う
催眠1 のであり、洗脳というのは、そうやって教祖に従わせる壮大な詐欺である。

ただ、どちらにしろ、自分の意志に反することは出来ない。あくまでも、
自分の意志で選択していると思わせるのである。
だから、そういう場合はかけられたいと相手に思わせる、ハッタリも必要で
ある。ある時、ぼくがセミナーを受けた日本催眠学会会長の加藤洋二さん
がテレビ番組に出演して、実演していたが、いかにも学者風の人であり
大丈夫かいなと思って見ていたら、見事に失敗していた。彼のような人
よりは俳優の丹波哲郎のような図太い人物の方がずっとうまいのである。
しかし、それでも潜在意識をどうこうしてるわけではない。

ただ、潜在意識というなら、「忘れられた記憶」というのは確かにある。
例えば、頭脳に外傷を受けたり、強度の精神的ショックで起こる
「記憶喪失症」というのがある。それは脳が自己保存のために自動的に
起こすものであり、何かの経緯でそれが蘇ることがあり、そういう意味では
確かに「潜在意識」というのはある。そして、幼少期の頃に、繰り返しの
暗示を与えられて、それが人格形成に影響を与えられたというのは、
不思議ではない。

フロイトは、記憶の不確かな幼少期に親や環境から与えられた経験や
暗示が影響して、人間の性格を形造っている、という意味で潜在意識と
言ったのであり、それならば潜在意識に新たな暗示を加えれば、本人を
不自由にしている精神的な不具合を治療できると考えたのである。
しかし、それが自己保存本能で起きている以上、無理な暗示で変えれば
別な不具合が起きることも考えられる。フロイトは、催眠術がうまくいかない
理由をそう判断したのである。それよりは、本人が自分の気付きで、自己
治癒をさせるのが最も自然であると考えるようになった。

そういうことで、後に考えられた方法として「箱庭療法」というのがある。
これは、砂場にいろんなタイプの人形を用意して、好き勝手に遊ばせて
自分を表現させるのである。いわば絵を描くのと同じである。
催眠4 人間は何らかの形で自分を表現することが出来れば、自分の何かの
不具合に気付くのである。すると必ず、心理的な自己治癒が起きる。
フロイトは、夜に見る夢もその一種ではないかと気付いて、のちに
夢を分析するようになる。

しかし、彼の後継者のはずだったユングは、潜在意識の範囲を拡げて、
人類の集合無意識という領域にまで踏み込んで行く。それは、生命全般
や宇宙にまでイメージが拡大し、東洋の禅や、宗教的な無我の境地、
あるいは、オカルトと言われるような超心理学にまで発展する。それが
後のオームのような新興宗教にも利用されるのである。
もちろん、それはユングのせいではないが、フロイトはそれに違和感を
覚え、ついに絶縁するのである。フロイトは、あくまで田舎で、臨床研究を
行う精神科医であり、思想家ではなかった。
ところが、潜在意識は一人歩きをして、人間の行動をコントロールする
療法の理論的根拠となり、あるいは催眠術ショーの後ろ盾になり、
あるいはユングが唱えた集合無意識という超心理学にまで発展する。
どうも、潜在意識というのは、本来の意味から、かけ離れて、とんでもなく
濫用(らんよう)されてしまったとフロイトは嘆いたのではなかろうか。
(2016年3月)


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