石の2 仙台藩は意外に貧乏だった

仙台藩1 仙台藩は伊達政宗の62万石ということで、東北一の大藩であったが、
その財力が豊かだったのは、江戸時代の中期頃までの話で、その後、
幕末にかけては、段々と貧困になっていったようである。というのは、
江戸時代後半に東北を旅行した人の紀行を幾つか読んでいると、
仙台城下というのは貧しい家が多く、寂れていて、領内に入ったり
出たりするのに、やたらと賃金を取られると不満を漏らしている記述が
けっこう多いのである。そこで、調べてみると、どうも仙台藩は米の
経済に頼り過ぎていたようである。

仙台藩を創始した伊達政宗は、北上川の流れを変えるような土木
事業を行い、洪水を制し、新田を開発して米の収穫量を増やしたし、
その後の2代藩主も3代藩主も、同じ事業を継続し、米の増産を計り、
それを江戸に売って経済を豊かにすること成功する。中等米だったが
「江戸に出回る米の3割は奥州仙台の産だ」と言われたほどである。
とにかく仙台藩は、自分達が食べる以外の米をすべて藩が買い上げ、
江戸で売りまくったのである。仙台藩にとっては、江戸時代前半は、
いわば高度成長期だったのだ。

それならば、仙台藩の財政は安泰だと思われそうだが、そう、うまくは
いかなかった。なにしろ、日本中の諸藩が新田開発に勤め、全国で
米の収穫量が上がるにつれ、米の値段がじわじわ下がっていくので
ある。さらに東北では冷害が何度も襲う。冷害で米の収穫が減ると、
売る米がなくなり、当然貧乏になる。と思っていたら、翌年、西日本で
旱魃が起こり、東北の米の値段が上がり、仙台藩は大儲けをして、
仙台藩2 前年の損失を一気に回復したりする。まるで博打のようなものである。
そのせいで、価格が上がった時には、備蓄米までも売ってしまったと
いう。すると翌年に冷害が起こると、また貧乏になるどころか、飢饉に
なり、自分達が食べる米もなくなり、餓死者が出るほどになったという。

特に、江戸時代後半の、1780年代の天明の大飢饉と、1830年代の
天保の大飢饉の時には、武士の中にも餓死する人が出たというから
異常である。仙台藩の総人口が40万人から30万人にまで減ったという。
その影響はその後の幕末の仙台にまで及び、そのせいか、幕末に近い
頃の仙台にやってきた九州の藩士が、仙台の様子を表した旅行記では、
「62万石の大藩というが、町中は商売の活気もなく、家々も貧相である」
と記している。つまり、普通の商家もあまり育たなかったらしい。

しかし、実は徳川幕府自体がそうだったのであり、米の増産を経済の
基本に据えている限り、いずれは徳川体制と共に衰退する運命にあった。
なにしろ、武士は給料を米で支給されていたが、それは自分達で食べる
分以外を金銭に換える必要があり、それは商人に委託するしかない。
しかし、新田を開発して、米の収穫量が増えるほどに米の価格が下がる。
他のものの価格が下がらないのに、米価だけが下がるということは、
武士の手取りが減るということだ。だから、武士はどんどん貧乏になり、
商売をやる町民は裕福になるのである。そういうことを理解していた他の
藩では、米以外の産品を開発し、商売することを奨励していた。

仙台藩3 例えば、山形の庄内藩では紅花を栽培して、京都に売っていたし、日本海
の各藩では、北前船によって北海道から昆布などを運ぶ中継基地として、
様々な利益を上げていた。また、米の獲れない薩摩藩は、沖縄を支配する
ことによって清国との密貿易を行い、砂糖の生産で富を貯えた結果、倒幕
の最大の藩に成り得たのだ。やはり、海外の情報が入る西日本諸藩の方
が、商売には積極的だった。江戸時代には朱子学の影響で、武士は商売
を軽蔑していたが、西日本ではそういう風潮が少なかった。だから幕末では
商売を積極的に行った西日本諸藩が裕福になり、あくまで商売を行わない
幕府を潰そうとしたのである。

今でこそ、北陸や東北はおいしい米の生産地として有名だが、そういう風に
なったのは、冷害に強い品種改良が成功した戦後の事である。だから、
江戸時代において、仙台藩が温帯地の作物だった米を売り物にしたのが、
そもそもの間違いなのだろう。仙台商人といえば、伝統的にあまり評判が
良くない。上から目線で、まるで売る意欲がないと言われている。それは、
米を売る以外に、何の商売も考えなかったせいなのかもしれない。
(2018年6月)

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