石の3 戦争は知らない


戦争 50歳に突入した頃のある日、九州に住む
中学生時代からの親友から電話があって、
その会話の中で、彼がポロっと、
「もう、オイ達は徴兵されんで済むぞ」
と、ホッとした風に言った。
「確かにな」と、ぼくも少し笑った。
ぼくらの親の世代の悲惨さから比べれば、
僕たちはいい年代に生きたと思う。
この先の、息子世代はわからないが…。

ぼくの父は、18歳の頃、徴兵に取られ、陸軍の
飛行整備兵として、中国大陸から、南太平洋へと
青春のほとんどを戦争で過ごした。
父が進んで戦争体験を語ることはあまりなかったが、
テレビのアメリカの人気戦争ドラマ「コンバット」
などで、サンダース軍曹がマシンガンでドイツ兵を
バタバタ倒すと、時折、
「鉄砲の弾は、あんな簡単には当たらん」
と、ボソッと言った。
また、ぼくがプラモデルで、米海軍の戦闘機
「ボートコルセア」を作っていると、やはり父が
「そいつが一番怖かった。地面スレスレに
機銃掃射をしてきて、逃げ回ったもんたい」
と、いまいましそうに言った。

母の場合は、両親が佐賀から、当時、日本の植民地
だった北朝鮮の海辺の町・元山に移住し、そこで
生まれた。女学校を卒業して、銀行員になった時
敗戦になった。
日本人社会はパニックになり、内地に引き揚げた。
元山は港町だったので、母達はまだ幸運だったが、
満州にいた日本人は悲惨な目にあったらしい。
とにかく、引き上げ船を待ち、財産も失くして、
長崎の親類の家に身を寄せた。

母と父は、そこで見合い結婚をした。
しばらく京都に住んだが、再び、長崎に帰る。

父の実家は、諫早市にあり、盆、正月に
家族で訪れると、叔母さん(父の妹)が、
よく昔の話をしてくれた。語りのうまい人で、
長崎市に原爆が落ちた日のことを話してくれた。
 諫早市というのは、長崎市からは汽車で
一時間ほどの距離にある。
叔母は二十歳前の娘だった。
その日、快晴の空がいきなり暗くなった。
なんだろうとみんなが表に飛び出した。
すると、長崎市方面が異常に赤い。何かあったらしい。
やがて、長崎に大きな爆弾が落ちたらしいと話が
伝わってきた。
夕方になると、男は手伝いに来て欲しいという。
「死体を焼くげな、女はよか」と言われた。
貨物列車で、長崎からどんどん死体が運ばれて来る。
「それを焼かんばならん」と連絡に走り回っている
男の人達の目が血走っていた。

ぼくら家族が長崎市内に住んだのは、原爆から
十数年後だが、その時には、長崎の町はすっかり
復興していた。

ただ、市内を見下ろす金毘羅山の頂上の野原に、
そこだけポツンと、半壊した二階建てビルが残っていた。
足元には、ガラスや瓦礫がそのまま、爆熱でやられたまま。
ガラスがぐにゃりと溶けていた。すごいもんだと思った。
が、数年後、撤去された。

日本にはその後、戦争はないが、
世界各地では、あいかわらず、戦争が続いている。
ジョン・レノンは名曲「イマジン」の中で、
戦争のない世界を夢みよう、それはできるんだ、、
と歌っていて、聴いていると、ウットリするが、
「その後、地球の人たちは、幸せに暮らしましたとさ」
という童話は、いつの日か成り立つだろうか。
(2002年)

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