石の2 東日本大震災・その3

 あの震災以来、吉村昭さんが1970年に書いた「三陸海岸大津波」
震災21  の文庫版がたいへんよく売れている。その本によると明治29年の時も、
 昭和8年の大津波の時も、その前兆として、事前にイワシが浜辺を
 埋め尽くすほどの大豊漁になったそうである。
 そして振り返ってみれば、今回も、前年の2010年の8月31日の河北新報で、
 今年はイワシが大豊漁であり、石巻漁港ではなんと、前年の11倍もの漁獲量
 だと報じていたのである。しかし、その大豊漁について、魚の専門家は首を
 ヒネるばかりで、それを大地震や大津波の前兆として結びつけて気にする
 人もあまりいなかったようだ。いや、少しはいたのかもしれないが…。

 吉村昭さんのこの本を読むと、三陸地方から宮城にかけては、
 今回と同じ規模の大地震と大津波が、数十年から百年の間をおいて
 繰り返し繰り返しやってきていることがわかる。
 今回の津波被害は、現代の人々が「まさかここまで来るとは思わなかった」
 という海岸から4Km内陸の平野にまで及んでいるのだが、平安時代初期の
 「貞観(じょうがん)地震」の時と、ほぼ同じくらいの距離にある多賀城という
 当時の政庁舎の門前まで来たという記録が残っているのだ。
 ということは、もし大地震が起こって大津波警報が出たら、そこまで
 水が来てもおかしくないぞという知識くらいは持っていてもよかったのでないか?
 とも思うが、何しろ千年前のことだ。油断していたのだ。

 今回の大震災後の4月25日の河北新報の朝刊に
震災2-2  「先人の知恵、浸水防ぐ、宮城県南『浜街道』」というタイトルで、
たいへん興味深い事柄が紹介されていた。
それによると、東北大学の東北アジア研究センターの平川新教授の
グループが、航空写真などと照らし合わせてわかったことだが、
江戸時代における、宮城県南部の浜街道と宿場町は、今回の
浸水地域のすぐ外側をなぞるように通っているというのである。
つまり、過去の津波がどこまで来たかという知識を活かして、それを
ギリギリ迂回するように街道を作っているというのだ。
それこそ、経験を活かした知恵である。

そして、さらにわかったことだが、よく調べてみると三陸海岸や宮城の
海岸には「ここまで津波の水が来た」という石碑があちこちに建っているの
である。三陸海岸のある漁村では「ここより下には家を作るな」という
強い戒めを書き込んだ石碑もあって、それに従って、被害を免れたという
集落も実際あるが、新参者が多い町では知らない人も多いと言う。
仙台市内の海岸平野部には「ここまで水が来た」ということを示す
「浪分(なみわけ)神社」というのもある。テレビでそういうことを詳しくやって
いたが、それによると、そういう戒めの石碑は、三陸だけではなくて、
紀伊半島、阪神、四国地方にまであるそうだ。その中のあるものには、
年が経ったら若いモンにもわかりやすい言葉で造り治せとまで書かれて
いるのもあるそうだ。先人が子供や孫、子孫に寄せる愛情があふれている
ように思える。

震災2-3 先人の知恵といえば、観光地である松島は、入り江の奥であり、
多くの小島が緩衝材になって、被害は少なかったのだが、その少し
外側に当たる奥松島の町は大きな被害にあってしまった。ただ、
その奥松島の入り江の中で、里浜という場所だけは比較的に被害が
少なかった。実は、そこには縄文時代の貝塚跡や住居跡が集中していて、
今では縄文博物館が建てられている入り江なのだ。要するに、
歴史的に繰り返される津波の中で、そこだけは被害が少ない地形だぞ
という知識が継続されていたらしいのだ。
今回の地震でも、被害のなかったその縄文博物館は、避難所となり、
通信連絡所となって大活躍したという。

それにしても地殻変動とは、地震や津波を繰り返しながら、大きく見れば、
日本列島自身が動いていくことにも繋がる。多くの学者によれば、
日本列島は日本海側が浮き上がり、太平洋側は沈み込み、
だんだん大陸に近付いていって、やがてくっついてしまうのだという。

実際、今回の地震では、石巻や気仙沼などの宮城県の漁港や町が
地盤沈下して、満潮になると町の通りが、その度に水浸しになるという。
海抜ゼロメートル地帯が宮城県沿岸では一気に広がったのである。

それと対比して思い浮かべる土地がある。
秋田県南部の日本海に面している象潟(きさかた)である。
ここは江戸時代初期には、九十九島と呼ばれ、仙台の松島と同じように、
遠浅の海の中に多くの小島が浮かんでいるような景勝地だった。
芭蕉は、そのどちらも訪れていて、印象として、
「松島は笑うが如く、象潟は憾(うら)むが如し」と書いている。
松島が海に開けているのに対して、象潟はどちらかというと、
閉じ込められたような水域の潟の中に小島が浮いている風景
だったらしい。芭蕉がそこを通ったのは1689年である。

ところが1804年に大地震が起こり、象潟は一晩にして浅瀬が
隆起して陸になってしまうのである。その後、そこは田園地帯となったが、
小島だった隆起はそのまま保存され、「陸の松島」と呼ばれる不思議な
景勝地となっている。仙台の松島を観た人には、実はここも是非
観光してみて欲しいものである。

ぼくはその景色を見ながら、日本列島は、西が隆起し、東が太平洋に
沈んでゆくんだなと、あらためて思った。
そういう沈んでゆく側の、津波が多い側の海岸沿いに、第一世代の原発を
何基も建設するというのは、先人の知恵をほとんど無視しているとしか思え
ないのである。
(2011年5月)


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