石の2 長崎生まれの南極観測船「宗谷」


宗谷1 「宗谷」といえば、南極観測船の初代として有名であるが、
元々は貨物船として、長崎の香焼にあった川南工業という
造船所で造られたのだという。へえーである。
そこで詳しく調べてみると、これが実に波乱万丈の人生を送り、
しかも、ものすごい強運で、ほぼ半世紀を生き抜いた船なので
ある。奇跡の船と言ってもいい。

昭和11年、香焼の民間造船所がソビエトから受注したのは、
カムチャッカ半島辺りで輸送業務を行う耐氷型の貨物船だった。
ところが、完成した昭和13年頃には、ソビエトは日本の
仮想敵国となっており、日本海軍の圧力により、ソビエトに
渡さないことに決まり、結局、「地領丸」という名前で民間の
貨物船になり、あちこちの海運会社からチャーターされて、
しばらく貨物輸送に励むことになる。

ところが、宗谷の特長として、耐氷型という点と、
もうひとつ、他の船にはないイギリス製の音響測深儀を
装備していたために、太平洋戦争が始まると、海域測量の
特務艦として日本海軍に採用されるのである。
名前も「地領丸」から「宗谷」となった。
船の前の方に、ちょっとした機関銃も装備された。
いわば、田舎で畑を耕していた農夫がいきなり呼ばれて、
槍を与えられて、ついてこいと言われたような
もんである。仕方なくすごすごとついて行く。

それからというもの、北方の輸送業務から始まって、
次には南方のラバウルを基地にしての資材やら食糧の
輸送や測量を行った。あちこちでアメリカの爆撃機による
大空襲を受けるものの、付近の艦船が被害を受ける中、
不思議と宗谷だけには当たらない。昭和18年1月には、
敵の潜水艦から狙われて、魚雷4発を発射されるものの、
3発はそれて、1発が当たるも不発弾で、逆に爆雷を
落とすとそれが当たって、敵潜水艦轟沈という成果を
上げてしまう。その日は、不発弾となった魚雷を
引き上げてみんなで記念写真を撮り、飲めや歌えの
大宴会となったそうである。

そして昭和19年2月、連合艦隊の司令部が置かれていた
トラック島が二日間に渡って、敵空軍機による大空襲に
襲われて湾内の艦船も、ほとんどが壊滅的打撃を受ける。
宗谷は一日目にして、逃げ回る内に浅瀬に座礁して、
身動きがとれずになってしまい、執拗な爆撃や機銃掃射を
受けるが、致命的な被害は受けず、離礁作業を行い、
爆撃の終わった湾内に、一隻だけポカンと浮いていたという。
この二日間で、被害は艦船50隻(沈没41隻、損傷9隻)、
航空機270機、燃料タンク3基、死者600人というのだから、
その中で生き残った宗谷というのは、奇跡的だった。

宗谷3 その後、宗谷は横須賀に帰り、今度は日本近海の北方で、
石炭や資材の運搬に励むのだが、ここにもアメリカの
潜水艦の攻撃が待っていた。満州をめざして、3隻で
出発した時には、魚雷攻撃を受け、宗谷以外は撃沈されて
しまう。その後も、同じようなことが続くが、どういうわけか、
宗谷だけは生き残るのである。

そして終戦。今度は大蔵省の所属になり、引き揚げ船に
なった。南方や、中国大陸、北方に残った日本人を
迎えに行く船である。軍装を外して、甲板の上には、
簡易トイレや、洗面所がたくさん作られた。
総数2万人の日本人を海外から内地へと運んだのだ。
この引き揚げ業務も昭和23年で終わった。

しかし、休む間もなく、宗谷は今度は、海上保安庁の
所属となり、灯台補給艦としての任務に就く。
離れ小島の灯台守の人々に食料、資材を届ける
役目である。映画「喜びも悲しみも幾年月」には、
実際の宗谷の映像が出てくる。
そういう地味な仕事をしていた宗谷に、ある日突然、
今度は南極観測船になってくれという話が舞い込むのである。

敗戦国となって打ちひしがれていた日本にとって、
南極に基地を作るというのは、輝かしい夢であった。
とにかく資金がなかったが、全国から市民の寄付が
集まり、戦後復興期のあらゆる企業からの技術の提供
もあって、夢が現実になるのである。ただ、問題は
砕氷船の建造には時間がないというのである。
そこで、耐氷型というだけで、当時はもうサビまみれで
ボロボロの宗谷に白羽の矢が舞い込んだのである。
それからの大改装も突貫工事だったという。

そして、昭和31年(1956年)11月に、南極に向けて
宗谷4 宗谷は東京から出航したのである。ここら辺の経緯は、
NHKの「プロジェクトX」の番組にもなった。
皮肉にも、南極観測船としての宗谷は途中で
氷に閉じ込められて、第一回目はソビエトに、二回目は
アメリカの砕氷艦に助けられることになるのだが、
敗戦国であり貧乏国の日本がアジアで唯一、
南極の昭和基地を築くことを成功させたのである。

そして、6次に渡る南極観測船としての仕事を果たして
さすがに老朽化した宗谷は、昭和37年(1962)に引退。
しかし、今度は海上保安庁の巡視船として再び改造され、
またまた北方での海難救助船としての仕事に就くのです。
ほとんど不死身です。ここでの活躍も大変なもんです。
得意の砕氷能力を活かして、氷に閉じ込められたり、
遭難した漁船の救助にあたり、海難救助出動350件以上、
救助船125隻、救助人数なんと約1000名に及び、
「北の海の守り神」とまで言われるようになったのである。
そして、やっとほんとの一切の仕事を終えたのが
昭和53年(1978)7月だった。しかし、解体はされなかった。
その雄姿は今でも、東京の「船の科学館」に保存され、
今でも多くの見学者が訪れているという。
船といえどたいしたもんだと思う。人間もこうありたい。
(2008年)
(参考…「日本財団・図書館のホームページ」)

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